Re: いよいよ韓国消滅へカウントダウン!
投稿者: ftdrjbhi 投稿日時: 2009/02/16 22:24 投稿番号: [49785 / 73791]
436年五月北燕天王馮
弘は竜城の民を率いて東方に移動を開始しました。
高句麗本紀はその時の状況を次のように書いています。
−【長寿王二十四年五月、燕王は竜城の住民を率いて、東に移るとき、宮殿を焼いたが、その
火は十日も消えなかった。
(この行軍では、)婦人に甲(よろい)をきせ、中央におらせ、陽尹らは精鋭な軍隊を率いて外に
おり、葛盧と孟光は騎馬隊を率いて殿をつとめ、車をならべてすすんだ。(この行列は)前後
八十余里(にもおよんだ)。魏王がこのことを聞き、燕王を送るよう命じた。
王は魏に使者を派遣し、馮弘とともに魏の王化を奉じたいと上表文を奉った。】−
暗黒の夜中、野宿を重ねた馮
弘の一行に、燃え上がる宮殿の火が名残りを惜しむかのように
夜空に火の粉を散らしたとき、彼らはなにを感じたでしょう。
ただ手を合わせ、祖先の霊に別れを告げ、仏の導くまま東方に歩みを続けたのでした。
その後、高句麗領内の平郭(中国遼寧省蓋平付近)次いで北豊(中国遼寧省遼東の西方)に
弘がいたことは資料にみえますが、それから先は謎の部分が多いのです。
高句麗本紀にはこの間の事情として
−「弘か遼東にきたとき、彼の太子の王仁を人質とした。弘はこのことを怨み、使者を宗に派遣し、
上表文を奉り、迎えを求めた。宗の太祖は使者として王白駒(おうはくく)らを派遣し、弘を迎えに
行かせた。」−
−【長寿王二十六年(438年)春三月、高句麗王は弘を南に行かせることを好まず、将軍の孫漱
(そんそう)や高仇(こうきゅう)らを派遣し、北豊で弘やその子孫十数人を殺させた。
(宗の)王白駒らは部下の七千余人を率いて、(高句麗の将軍を)不意打ちし高仇を殺し、孫漱
を生け捕りにした。】
歴史書には「弘やその子孫十数人を殺させた。」とあるけれど「殺した」とは書いていない。
このへんになにか、からくりがあるみたいです。
高句麗王はこの時代、中国の北の勢力北魏と南方の勢力宗の南北両朝に朝貢し、そのバランス
を保つて自国の安全を図ることが最重要でしたから、馮
弘のことで両朝の板ばさみになることは
なんとしても避けなくてはなりませんでした。
王は弘を殺したことにして別の場所に移したのではないかと思われるのです。
混乱の中、馮一族も二分して、あるものは王白駒らに従って南方の宗に行き、また馮
弘らは
古新羅方面に身を隠したのでしょう。高句麗王の隠密の援助があつたのです。
これは メッセージ 1 (may7idaho さん)への返信です.
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