Re: いよいよ韓国消滅へカウントダウン!
投稿者: ftdrjbhi 投稿日時: 2009/02/16 22:07 投稿番号: [49778 / 73791]
大伴大連室屋に詔して、東漢直掬(やまとのあやのあたいつか)に命じ、新漢
(いまきのあや)陶部高貴(すえつくりこうくい)・鞍部堅貴(くらつくりけんくい)・画部因斯羅我
(えかきいんしらが)・錦部定安那錦(にしきごりじょあんなこむ)訳語卯安那(おさみょうあんな)
らを上桃原・下桃原(大和国高市郡)・真神原(明日香村)の三カ所に居住させた。】という。
日本初期仏教に貢献し、仏教界をリードした人たちです。
書紀には「百済から連れてきた」と嘘を書いていますが、信用できる話ではありません。
真実を隠すためのごまかしが入っています。
これらの民は「藤ノ木古墳出土の鞍金具」から馮 弘の引き連れて来た北燕国の遺民だと推測
できました。
ついでに額田村の広がりの中心にあるのが斑鳩(いかるが)の里で、藤ノ木古墳や聖徳太子
邸宅・法隆寺があるところでした。これらの主と前面に広がる額田村とどんな関係があつたのか、
位置関係からみて両者の関わりはきわめて興味のあることですが、現在のところはつきりした
ことは解明されていません。さきに話を進めましよう。
馮 弘の民は明日香村(上桃原・下桃原・真神原・栗原)(日本初の本格的寺院の建設される
地名でもある。)や額田邑に住いをいただきました。
同時に弘も「この国を奪うことはしない」と倭国大王に誓いを立てて、彼の民たちとともに明日香
に居住を許されたのです。
明日香は古代人が「すがすがしい場所」というところでした。「あすか」のあは説頭語で意味は
なく「すがすがしい」の意味の「すが」に「あ」をつけて場所を示したのです。
出雲神話にはスサノオが大蛇退治後、旅をして「須賀」にすむという説話がありますが、「旅をし
て」ということは、出雲から大和に移動したことなのでしょう。
距離の近いところに移り住んだことをいうのではありません。
さて、馮 弘やその民が明日香にきたことで、倭国の文化に大きな影響を与えました。
いろいろな才伎(てひと)を率いて来たので、それまで素朴な馬具しかなかったこの国も、立派な
鞍や金銅製の透かし彫のついた金具を手に入れることができるようになりましたし、その他の
金工細工も一段と進歩していきました。
頭には光り輝く王冠を被り、耳には垂飾付き耳飾りを、さらに伝統的な首飾りも一段と豪華になる
きんきらの豪族の姿、国内に持ちこまれた新しい桂甲という鎧を纏う兵士の姿が増えていきました。
女性には華やかな色彩の衣装が流行します。
飛鳥衣縫や伊勢衣縫の故郷・燕国の衣装文化から斬新なデザインが執り入れられ、宮殿の
女性たちや貴族の奥方たちの身をかざつたことでしょう。歩揺という歩くたびにきらきらと輝きな
がら揺れる小さい金飾りを多数付ける文化も列島に入ってきました。
鮮卑族・慕容氏が好んで身につけたもので、慕容という氏族名も、「歩揺」からきているという
中国歴史学者もいます。慕容氏が作った国が燕国で、弘の渡来によりその文化は中国北部から
確実に列島に移ってきたのでした。
馮 弘が倭国の中でも、王侯に準ずる生活を送っただろうという想像ができます。全身金ピカの
装飾品で飾り、遠く燕国から運ばせた貴重な品々に囲まれて、庶民とは比べることが出来ない
ほど贅沢な生活だつたに違いありません。波瀾に満ちた人生の最後に訪れた平和なひとときでした。
しかし、弘の心残りは、この国が仏教を容易に認めようとはしなかつたことです。倭国は昔から
神様を信仰する国で、異国の宗教を排斥しょうとする有力豪族たちは数多くいたのでした。
東北アジアの諸国に仏教が伝来する時、中国宗主国から下賜の形をとった高句麗、百済には
仏教に対する反対勢力は存在しませんでした。
渡来人の私伝の形をとつた倭国には、当初から激しい反仏教の風が吹いていましたから馮 弘
の民たちも公の布教を禁じられ、ささやかな身内だけのお祭りを続けながら時を過ごしたのです。
仏教布教の波は弘の時代では起きることはなく、次の世代へと引き継がれていつたのでした。
五世紀後半のある日、病を患った馮 弘は、仏に導かれるように明日香の邸宅で息を引き取り
ます。
鞍部(くらつくり)や衣縫たちの哀悼を受けながら、かつての北燕国天王としてはあまりにもささや
かな陵(みささぎ)・後世に新沢千塚古墳群126号墳と呼ばれる古墳に葬られたのでした。
(いまきのあや)陶部高貴(すえつくりこうくい)・鞍部堅貴(くらつくりけんくい)・画部因斯羅我
(えかきいんしらが)・錦部定安那錦(にしきごりじょあんなこむ)訳語卯安那(おさみょうあんな)
らを上桃原・下桃原(大和国高市郡)・真神原(明日香村)の三カ所に居住させた。】という。
日本初期仏教に貢献し、仏教界をリードした人たちです。
書紀には「百済から連れてきた」と嘘を書いていますが、信用できる話ではありません。
真実を隠すためのごまかしが入っています。
これらの民は「藤ノ木古墳出土の鞍金具」から馮 弘の引き連れて来た北燕国の遺民だと推測
できました。
ついでに額田村の広がりの中心にあるのが斑鳩(いかるが)の里で、藤ノ木古墳や聖徳太子
邸宅・法隆寺があるところでした。これらの主と前面に広がる額田村とどんな関係があつたのか、
位置関係からみて両者の関わりはきわめて興味のあることですが、現在のところはつきりした
ことは解明されていません。さきに話を進めましよう。
馮 弘の民は明日香村(上桃原・下桃原・真神原・栗原)(日本初の本格的寺院の建設される
地名でもある。)や額田邑に住いをいただきました。
同時に弘も「この国を奪うことはしない」と倭国大王に誓いを立てて、彼の民たちとともに明日香
に居住を許されたのです。
明日香は古代人が「すがすがしい場所」というところでした。「あすか」のあは説頭語で意味は
なく「すがすがしい」の意味の「すが」に「あ」をつけて場所を示したのです。
出雲神話にはスサノオが大蛇退治後、旅をして「須賀」にすむという説話がありますが、「旅をし
て」ということは、出雲から大和に移動したことなのでしょう。
距離の近いところに移り住んだことをいうのではありません。
さて、馮 弘やその民が明日香にきたことで、倭国の文化に大きな影響を与えました。
いろいろな才伎(てひと)を率いて来たので、それまで素朴な馬具しかなかったこの国も、立派な
鞍や金銅製の透かし彫のついた金具を手に入れることができるようになりましたし、その他の
金工細工も一段と進歩していきました。
頭には光り輝く王冠を被り、耳には垂飾付き耳飾りを、さらに伝統的な首飾りも一段と豪華になる
きんきらの豪族の姿、国内に持ちこまれた新しい桂甲という鎧を纏う兵士の姿が増えていきました。
女性には華やかな色彩の衣装が流行します。
飛鳥衣縫や伊勢衣縫の故郷・燕国の衣装文化から斬新なデザインが執り入れられ、宮殿の
女性たちや貴族の奥方たちの身をかざつたことでしょう。歩揺という歩くたびにきらきらと輝きな
がら揺れる小さい金飾りを多数付ける文化も列島に入ってきました。
鮮卑族・慕容氏が好んで身につけたもので、慕容という氏族名も、「歩揺」からきているという
中国歴史学者もいます。慕容氏が作った国が燕国で、弘の渡来によりその文化は中国北部から
確実に列島に移ってきたのでした。
馮 弘が倭国の中でも、王侯に準ずる生活を送っただろうという想像ができます。全身金ピカの
装飾品で飾り、遠く燕国から運ばせた貴重な品々に囲まれて、庶民とは比べることが出来ない
ほど贅沢な生活だつたに違いありません。波瀾に満ちた人生の最後に訪れた平和なひとときでした。
しかし、弘の心残りは、この国が仏教を容易に認めようとはしなかつたことです。倭国は昔から
神様を信仰する国で、異国の宗教を排斥しょうとする有力豪族たちは数多くいたのでした。
東北アジアの諸国に仏教が伝来する時、中国宗主国から下賜の形をとった高句麗、百済には
仏教に対する反対勢力は存在しませんでした。
渡来人の私伝の形をとつた倭国には、当初から激しい反仏教の風が吹いていましたから馮 弘
の民たちも公の布教を禁じられ、ささやかな身内だけのお祭りを続けながら時を過ごしたのです。
仏教布教の波は弘の時代では起きることはなく、次の世代へと引き継がれていつたのでした。
五世紀後半のある日、病を患った馮 弘は、仏に導かれるように明日香の邸宅で息を引き取り
ます。
鞍部(くらつくり)や衣縫たちの哀悼を受けながら、かつての北燕国天王としてはあまりにもささや
かな陵(みささぎ)・後世に新沢千塚古墳群126号墳と呼ばれる古墳に葬られたのでした。
これは メッセージ 1 (may7idaho さん)への返信です.