Re: いよいよ韓国消滅へカウントダウン!
投稿者: ftdrjbhi 投稿日時: 2009/02/16 21:21 投稿番号: [49763 / 73791]
海を越え天王号が、日本列島にやつてきた。
中国から消えた天王号が入れ替わるように海を隔てた日本列島に出現してきました。
書紀で天王という言葉が使われるのは、雄略紀五年・二十三年条ですが同時に日本という言葉
も使われ始めました。
列島の天王号は倭国の大王号に取って代わり、五世紀後半から現代に至るまで、途中に
「天皇」と表記を変えながらも継続して列島の首長号として用いられていることは御存知の通りです。
奈良時代、聖武天皇の年号「天平」は729年六月河内国古市郡の人、賀茂子虫が献上した祥瑞
の亀の背に読める【天王貴平知百年】(天皇の政治は貴く平和で、百年も続くであろう)の文字に
よって定められました。
天皇と表記を変えたのちも、天王という字は続けて用いられた例です。
ところで、それまで日本列島にあつた国は倭国で、半島南部にあった倭人の国々と連合国家を
作り、その王は「大王」と呼ばれていました。
その大王は五世紀末ごろまで列島に存在していたことは刀の銘文で確認できます。しかしその
後は大王という呼び方は消え、つぎには天王という呼び方に変わつていました。
大王がいらつしゃる倭国に天王号が入ったのです。
このことは列島に仏教が入ってくると同時に天王号も入ってきた、逆に天王号が入ってくると同時
に仏教も入ってきたと考えなければなりません。
さきにも述べたように天王号は仏教用語で仏教の守護者を意味するからです。
伝来した時期は、燕国滅亡後の五世紀代(440〜中ごろか)のことでしょう。書紀に出てくる天王
号が雄略紀なのも、時期的に適合しています。
半島には天王号は伝わらずに、中国遼寧省の北燕国から直接天王号は列島へ移つてきました。
だからこの天王号の出現も馮 弘の到来によるものです。
もし馮 弘が朝鮮半島に足場をもつたなら、半島にも天王号が伝わるはずと思うと弘の目指した
のは仏教の未開地の日本列島だつたのではないでしょうか。
馮 弘とその民 明日香に住む。
さて出雲に上陸した馮 弘の民たちが河内に連行され、苛酷の生活を送つたこと(「死ぬ者が
多かった」書紀雄略紀)は既に述べていますが、これに心を痛めた弘は大和に上り、ときの大王
に面会を求めます。そして「この国を奪うようなことはしない」と誓をたてました。
そして忠実にその誓をまもつたのです。結果、弘の民たちは解放され、各地に分散して居住する
ことを許されたのでした。
偽りの多い日本書紀は、馮 弘の来朝も歴史の話ではなく、神話の世界に入れてしまいました。
だから馮 弘の民たちもその出自を隠くされています。
−【仁賢紀六年条(五世紀後半か)−この歳、日鷹吉士が高麗より帰ってきて、工匠(てひと)の
須流枳(するき)・奴流枳(ぬるき)らを献上した。いま大倭国(やまと)山辺郡の額田邑(ぬかたの
むら・現在の大和郡山市額田部北町、寺町、南町付近)にいる熟皮高麗(かわおしのこま)は、
その子孫である。】−
−【雄略紀十四年条、身狭村主青(むさのすくりあお)らが、呉国の使者とともに、呉の献上した
才伎である漢織・呉織および衣縫の兄媛・弟媛らを率いて、住吉津(すみのえのつ)に碇泊した。
−中略−
三月に呉人を檜隈野(奈良県高市郡)に置いた。そこで呉原(明日香村栗原)と名づけた。
衣縫の兄媛を大三輪神に奉り、弟媛を漢衣縫部とした。漢織・呉織の衣縫は、飛鳥衣縫部・
伊勢衣縫らの先祖である。】
中国歴史書に書かれている倭国の大王は五人、すべて高句麗とは常に敵対関係にあり、
日鷹吉士の高麗へ「大王の使いをした」という条文が真実であるとはとても思えません。
それよりも、これらの民が出雲から連れてこられたと考える方が理に適います。
日鷹吉士が額田邑に連れてきた熟皮高麗(かわおしこま)は、従順な高句麗人(新漢人という
見方もある)という意味でしょうが、この地名は大和郡山市額田部とあるように伴造は額田部臣
でした。
岡田山一号墳(島根県松江市大草町)から「額田部臣」の文字を象嵌する太刀が出土して、
額田部臣が出雲の国に根拠地を持っていることが分かりますし、額田部邑の熟皮高麗とも当然
関係があるのでしょう。出雲から移動して、この地に来たと考えて良いのではないでしょうか。
すべてコピペです
中国から消えた天王号が入れ替わるように海を隔てた日本列島に出現してきました。
書紀で天王という言葉が使われるのは、雄略紀五年・二十三年条ですが同時に日本という言葉
も使われ始めました。
列島の天王号は倭国の大王号に取って代わり、五世紀後半から現代に至るまで、途中に
「天皇」と表記を変えながらも継続して列島の首長号として用いられていることは御存知の通りです。
奈良時代、聖武天皇の年号「天平」は729年六月河内国古市郡の人、賀茂子虫が献上した祥瑞
の亀の背に読める【天王貴平知百年】(天皇の政治は貴く平和で、百年も続くであろう)の文字に
よって定められました。
天皇と表記を変えたのちも、天王という字は続けて用いられた例です。
ところで、それまで日本列島にあつた国は倭国で、半島南部にあった倭人の国々と連合国家を
作り、その王は「大王」と呼ばれていました。
その大王は五世紀末ごろまで列島に存在していたことは刀の銘文で確認できます。しかしその
後は大王という呼び方は消え、つぎには天王という呼び方に変わつていました。
大王がいらつしゃる倭国に天王号が入ったのです。
このことは列島に仏教が入ってくると同時に天王号も入ってきた、逆に天王号が入ってくると同時
に仏教も入ってきたと考えなければなりません。
さきにも述べたように天王号は仏教用語で仏教の守護者を意味するからです。
伝来した時期は、燕国滅亡後の五世紀代(440〜中ごろか)のことでしょう。書紀に出てくる天王
号が雄略紀なのも、時期的に適合しています。
半島には天王号は伝わらずに、中国遼寧省の北燕国から直接天王号は列島へ移つてきました。
だからこの天王号の出現も馮 弘の到来によるものです。
もし馮 弘が朝鮮半島に足場をもつたなら、半島にも天王号が伝わるはずと思うと弘の目指した
のは仏教の未開地の日本列島だつたのではないでしょうか。
馮 弘とその民 明日香に住む。
さて出雲に上陸した馮 弘の民たちが河内に連行され、苛酷の生活を送つたこと(「死ぬ者が
多かった」書紀雄略紀)は既に述べていますが、これに心を痛めた弘は大和に上り、ときの大王
に面会を求めます。そして「この国を奪うようなことはしない」と誓をたてました。
そして忠実にその誓をまもつたのです。結果、弘の民たちは解放され、各地に分散して居住する
ことを許されたのでした。
偽りの多い日本書紀は、馮 弘の来朝も歴史の話ではなく、神話の世界に入れてしまいました。
だから馮 弘の民たちもその出自を隠くされています。
−【仁賢紀六年条(五世紀後半か)−この歳、日鷹吉士が高麗より帰ってきて、工匠(てひと)の
須流枳(するき)・奴流枳(ぬるき)らを献上した。いま大倭国(やまと)山辺郡の額田邑(ぬかたの
むら・現在の大和郡山市額田部北町、寺町、南町付近)にいる熟皮高麗(かわおしのこま)は、
その子孫である。】−
−【雄略紀十四年条、身狭村主青(むさのすくりあお)らが、呉国の使者とともに、呉の献上した
才伎である漢織・呉織および衣縫の兄媛・弟媛らを率いて、住吉津(すみのえのつ)に碇泊した。
−中略−
三月に呉人を檜隈野(奈良県高市郡)に置いた。そこで呉原(明日香村栗原)と名づけた。
衣縫の兄媛を大三輪神に奉り、弟媛を漢衣縫部とした。漢織・呉織の衣縫は、飛鳥衣縫部・
伊勢衣縫らの先祖である。】
中国歴史書に書かれている倭国の大王は五人、すべて高句麗とは常に敵対関係にあり、
日鷹吉士の高麗へ「大王の使いをした」という条文が真実であるとはとても思えません。
それよりも、これらの民が出雲から連れてこられたと考える方が理に適います。
日鷹吉士が額田邑に連れてきた熟皮高麗(かわおしこま)は、従順な高句麗人(新漢人という
見方もある)という意味でしょうが、この地名は大和郡山市額田部とあるように伴造は額田部臣
でした。
岡田山一号墳(島根県松江市大草町)から「額田部臣」の文字を象嵌する太刀が出土して、
額田部臣が出雲の国に根拠地を持っていることが分かりますし、額田部邑の熟皮高麗とも当然
関係があるのでしょう。出雲から移動して、この地に来たと考えて良いのではないでしょうか。
すべてコピペです
これは メッセージ 1 (may7idaho さん)への返信です.