Re: いよいよ韓国消滅へカウントダウン!
投稿者: ftdrjbhi 投稿日時: 2009/02/16 21:17 投稿番号: [49761 / 73791]
最後の天王号
馮
弘
中国最後の天王号をもつ馮 弘は北燕国の王様でした。日本列島の政治体制に大きな影響を
与えることになったこの人物はどんな方でしょうか、また燕国とは何処にあつた国なのでしょうか。
四世紀初め、中国北部はそれまでの漢族による政治体制が終り、北方民族が乱入して国を作る
状態になると、それまで中国国境北部にいた鮮卑族も中原の地をめざし、遼東半島付近から南
下して来ます。
まず鮮卑族の慕容氏が337年に華北東部に燕国を作りました。昔から燕と呼ばれる地域に
基盤をもち、国を作つたのは、この時代五カ国もあるので区別するため人々は最初に慕容氏に
よつて作られた国を前燕国と呼んでいます。
この前燕国は北方民族同士相争うなかで大秦天王符堅に滅ぼされ、中国北部は一時符堅に
よつて統一された時期があります。
符堅は勢いに乗じて南の漢人国・東晋に攻め込みましたが、そこで思わぬ大敗を喫してしまい
ました。命からがら北に向かって戦場を離脱する符堅を助け、守護したのは符堅によつて滅亡
され、一部将となつていた前燕国の慕容垂です。
−【いまこそ、手中にある符堅を殺し、滅ぼされた燕国の復讐をすると共に、中原を支配する絶
好の機会ですぞ】−
幕僚たちの進言を退けて垂はこのようにいいました。
−【わたくしに中原の地を征する力はない。ただ東部の地に祖業を復することが希みなのだ】−
慕容垂のお陰で窮地を脱し洛陽についた符堅に、垂は願い出ます。
−【この度の長征により北方の民族に動揺の兆があります。これを鎮める
ためと併せて祖先の墓参りをいたしたい。】−
符堅の武将たちや幕僚たちの【鷹を放つようなものだ】という反対の声を押さえ、符堅は垂が
二度と帰って来ないことを知りながらこれを許しました。
このようにして、慕容垂は燕国を再び華北東部に復興するのですが、この燕国を後燕国と呼び
ます。
北方騎馬民族の王たちの仁義に厚くその英雄ぶりを中国史書は率直に書いていますが、
ここで注目して頂きたいのは前後の燕国が華北東部の地を根拠地にしていたということです。
山東半島の土地の神である兵主神が日本列島に渡来してくることや、出雲に数多くある「韓国
イダテ神社」の祭神は、華北に起因する兵主神といわれていること。
この神が日本に来るのは、燕国との関係があるからではないかという状況証拠になるものです。
それはまた北燕国天王馮 弘の上陸地点の特定になるものでしょう。
詳しくは後で述べることにします。
さて義理・人情の厚い慕容垂の作った後燕国も、息子の宝の時代になると同じ鮮卑族拓跋部
の国北魏に圧迫され、都の中山(河北省)を捨て竜城(遼寧省)へと逃げ出さなくてはなりません
でした。397年のことです。
竜城は遼寧省朝陽というところにありました。
慕容宝からその養子となっていた高句麗氏族出身の慕容雲、さらに政権を引き継いだ漢人
馮 跋(北燕国初代天王409〜430)、馮 弘(在位430〜436)と朝陽の竜城を首都にして
いたのでした。人々は漢人の燕国を区別して北燕国と呼びます。
中国最後の天王号をもつ馮 弘は北燕国の王様でした。日本列島の政治体制に大きな影響を
与えることになったこの人物はどんな方でしょうか、また燕国とは何処にあつた国なのでしょうか。
四世紀初め、中国北部はそれまでの漢族による政治体制が終り、北方民族が乱入して国を作る
状態になると、それまで中国国境北部にいた鮮卑族も中原の地をめざし、遼東半島付近から南
下して来ます。
まず鮮卑族の慕容氏が337年に華北東部に燕国を作りました。昔から燕と呼ばれる地域に
基盤をもち、国を作つたのは、この時代五カ国もあるので区別するため人々は最初に慕容氏に
よつて作られた国を前燕国と呼んでいます。
この前燕国は北方民族同士相争うなかで大秦天王符堅に滅ぼされ、中国北部は一時符堅に
よつて統一された時期があります。
符堅は勢いに乗じて南の漢人国・東晋に攻め込みましたが、そこで思わぬ大敗を喫してしまい
ました。命からがら北に向かって戦場を離脱する符堅を助け、守護したのは符堅によつて滅亡
され、一部将となつていた前燕国の慕容垂です。
−【いまこそ、手中にある符堅を殺し、滅ぼされた燕国の復讐をすると共に、中原を支配する絶
好の機会ですぞ】−
幕僚たちの進言を退けて垂はこのようにいいました。
−【わたくしに中原の地を征する力はない。ただ東部の地に祖業を復することが希みなのだ】−
慕容垂のお陰で窮地を脱し洛陽についた符堅に、垂は願い出ます。
−【この度の長征により北方の民族に動揺の兆があります。これを鎮める
ためと併せて祖先の墓参りをいたしたい。】−
符堅の武将たちや幕僚たちの【鷹を放つようなものだ】という反対の声を押さえ、符堅は垂が
二度と帰って来ないことを知りながらこれを許しました。
このようにして、慕容垂は燕国を再び華北東部に復興するのですが、この燕国を後燕国と呼び
ます。
北方騎馬民族の王たちの仁義に厚くその英雄ぶりを中国史書は率直に書いていますが、
ここで注目して頂きたいのは前後の燕国が華北東部の地を根拠地にしていたということです。
山東半島の土地の神である兵主神が日本列島に渡来してくることや、出雲に数多くある「韓国
イダテ神社」の祭神は、華北に起因する兵主神といわれていること。
この神が日本に来るのは、燕国との関係があるからではないかという状況証拠になるものです。
それはまた北燕国天王馮 弘の上陸地点の特定になるものでしょう。
詳しくは後で述べることにします。
さて義理・人情の厚い慕容垂の作った後燕国も、息子の宝の時代になると同じ鮮卑族拓跋部
の国北魏に圧迫され、都の中山(河北省)を捨て竜城(遼寧省)へと逃げ出さなくてはなりません
でした。397年のことです。
竜城は遼寧省朝陽というところにありました。
慕容宝からその養子となっていた高句麗氏族出身の慕容雲、さらに政権を引き継いだ漢人
馮 跋(北燕国初代天王409〜430)、馮 弘(在位430〜436)と朝陽の竜城を首都にして
いたのでした。人々は漢人の燕国を区別して北燕国と呼びます。
これは メッセージ 1 (may7idaho さん)への返信です.