日本の仏教は百済から伝来
投稿者: k_g_y_007_naoko 投稿日時: 2009/02/01 17:55 投稿番号: [48533 / 73791]
投稿者:爺
なにかと妙な投稿が目に付いたから異論を申し述べよう。
日本に仏教が伝来したのは、
>『日本書紀』によると、仏教が伝来したのは飛鳥時代、552年(欽明天皇13年)に百済の聖明王から釈迦仏の金銅像と経論他が贈られた時だとされている。しかし、現在では『上宮聖徳法王帝説』(聖徳太子の伝記)の「志癸島天皇御世 戊午年十月十二日」や『元興寺伽藍縁起』(元興寺の成り立ち・変遷を記述したもの)の「天國案春岐廣庭天皇七年歳戊午十二月」を根拠に538年(戊午年、宣化天皇3年)に仏教が伝えられたと考える人が多いようである。歴史の教科書にはこちらの年号が載っている(詳細は仏教公伝を参照)。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E4%BB%8F%E6%95%99
とある。これが定説になっておる。第一回遣隋使は西暦600年、遣唐使は630年であるから、538年の百済からが最初であると考える。その後、660年に百済は新羅を支援した唐によって滅ぼされた。
遣隋使
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%A3%E9%9A%8B%E4%BD%BF
遣唐使
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%A3%E5%94%90%E4%BD%BF
百済
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BE%E6%B8%88
>倭国との外交関係は、高句麗・新羅に比べて友好的であった。百済の中期には、高句麗の軍事的圧力に対抗するために和通したと記録されている、『日本書紀』の中には、領土を奪われた百済に任那の一部を割譲した記録や援軍を供出した記録、さらには倭朝廷に朝貢したり、王族を人質として差し出した記録などが数多く残っている。また中国の『隋書』にも、新羅・百濟は、みな倭を以て大国にして珍物多しとなし、並びにこれを敬い仰ぎて、恒に使いを通わせ往来す。(新羅百濟皆以倭為大國多珍物並敬仰之恒通使往來)という記述があり朝貢関係があったことをうかがわせる。さらに、広開土王碑でも倭について、百済■■新羅を破り以って臣民と為す(「倭ロ<耒卯年来渡海破百殘■■新羅以爲臣民」)という部分があり百済が辛卯年(391年)に倭によって支配を受けていたことも明らかとなっている。
一方、『日本書紀』には百済の歴史書が多く引用され(『百済記』『百済新撰』などが引用されているが遺失した歴史書である)、百済から輸入された文物は多い。有名な文化財には、軍事的援助の礼として倭に送られた奈良県の石上神宮に伝わる七支刀がある。
百済滅亡により、百済王と王族・貴族を含む数千の百済人が倭国に亡命し、王族・貴族をはじめ技能を持った民も登用されて朝廷に仕えた。豊璋の弟・善光(または禅広)の子孫は朝廷から百済王(くだらのこにきし)の姓を賜り、百済の王統を伝えることになる。百済王氏は8世紀に敬福(きょうふく)が陸奥守として黄金を発見し東大寺大仏造立に貢献するなど日本の貴族として活躍した。大阪府枚方市に残る百済王神社はその百済王氏の氏神を祭る神社である。この他、5世紀に渡来した昆伎王を祀る延喜式内社飛鳥戸神社など百済にまつわる延喜式内社はいくつもある。また奈良県北葛城郡広陵町には百済の地名が集落名として現存し、百済寺三重塔が残る。
なお百済王氏ではないが、光仁天皇の妻の一人であり、桓武天皇の生母である高野新笠は百済武寧王を遠祖とする渡来人和氏の出身という説もあるものの、定かではない。
百済史年表
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BE%E6%B8%88%E5%8F%B2%E5%B9%B4%E8%A1%A8
百済考古遺跡
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BE%E6%B8%88%E8%80%83%E5%8F%A4%E9%81%BA%E8%B7%A1
古代朝鮮半島関連の中国文献
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E4%BB%A3%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E5%8D%8A%E5%B3%B6%E9%96%A2%E9%80%A3%E3%81%AE%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E6%96%87%E7%8C%AE
[編集] 隋書
倭国傳
新羅百済皆似倭為大国多珍物並敬仰之恒通使往来。(新羅と百済は日本を大国で珍しい物が多い国だとしており、ともに日本を敬い仰ぎ、つねに使いを送り、往来している\xA1
なにかと妙な投稿が目に付いたから異論を申し述べよう。
日本に仏教が伝来したのは、
>『日本書紀』によると、仏教が伝来したのは飛鳥時代、552年(欽明天皇13年)に百済の聖明王から釈迦仏の金銅像と経論他が贈られた時だとされている。しかし、現在では『上宮聖徳法王帝説』(聖徳太子の伝記)の「志癸島天皇御世 戊午年十月十二日」や『元興寺伽藍縁起』(元興寺の成り立ち・変遷を記述したもの)の「天國案春岐廣庭天皇七年歳戊午十二月」を根拠に538年(戊午年、宣化天皇3年)に仏教が伝えられたと考える人が多いようである。歴史の教科書にはこちらの年号が載っている(詳細は仏教公伝を参照)。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E4%BB%8F%E6%95%99
とある。これが定説になっておる。第一回遣隋使は西暦600年、遣唐使は630年であるから、538年の百済からが最初であると考える。その後、660年に百済は新羅を支援した唐によって滅ぼされた。
遣隋使
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%A3%E9%9A%8B%E4%BD%BF
遣唐使
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%A3%E5%94%90%E4%BD%BF
百済
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BE%E6%B8%88
>倭国との外交関係は、高句麗・新羅に比べて友好的であった。百済の中期には、高句麗の軍事的圧力に対抗するために和通したと記録されている、『日本書紀』の中には、領土を奪われた百済に任那の一部を割譲した記録や援軍を供出した記録、さらには倭朝廷に朝貢したり、王族を人質として差し出した記録などが数多く残っている。また中国の『隋書』にも、新羅・百濟は、みな倭を以て大国にして珍物多しとなし、並びにこれを敬い仰ぎて、恒に使いを通わせ往来す。(新羅百濟皆以倭為大國多珍物並敬仰之恒通使往來)という記述があり朝貢関係があったことをうかがわせる。さらに、広開土王碑でも倭について、百済■■新羅を破り以って臣民と為す(「倭ロ<耒卯年来渡海破百殘■■新羅以爲臣民」)という部分があり百済が辛卯年(391年)に倭によって支配を受けていたことも明らかとなっている。
一方、『日本書紀』には百済の歴史書が多く引用され(『百済記』『百済新撰』などが引用されているが遺失した歴史書である)、百済から輸入された文物は多い。有名な文化財には、軍事的援助の礼として倭に送られた奈良県の石上神宮に伝わる七支刀がある。
百済滅亡により、百済王と王族・貴族を含む数千の百済人が倭国に亡命し、王族・貴族をはじめ技能を持った民も登用されて朝廷に仕えた。豊璋の弟・善光(または禅広)の子孫は朝廷から百済王(くだらのこにきし)の姓を賜り、百済の王統を伝えることになる。百済王氏は8世紀に敬福(きょうふく)が陸奥守として黄金を発見し東大寺大仏造立に貢献するなど日本の貴族として活躍した。大阪府枚方市に残る百済王神社はその百済王氏の氏神を祭る神社である。この他、5世紀に渡来した昆伎王を祀る延喜式内社飛鳥戸神社など百済にまつわる延喜式内社はいくつもある。また奈良県北葛城郡広陵町には百済の地名が集落名として現存し、百済寺三重塔が残る。
なお百済王氏ではないが、光仁天皇の妻の一人であり、桓武天皇の生母である高野新笠は百済武寧王を遠祖とする渡来人和氏の出身という説もあるものの、定かではない。
百済史年表
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BE%E6%B8%88%E5%8F%B2%E5%B9%B4%E8%A1%A8
百済考古遺跡
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BE%E6%B8%88%E8%80%83%E5%8F%A4%E9%81%BA%E8%B7%A1
古代朝鮮半島関連の中国文献
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E4%BB%A3%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E5%8D%8A%E5%B3%B6%E9%96%A2%E9%80%A3%E3%81%AE%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E6%96%87%E7%8C%AE
[編集] 隋書
倭国傳
新羅百済皆似倭為大国多珍物並敬仰之恒通使往来。(新羅と百済は日本を大国で珍しい物が多い国だとしており、ともに日本を敬い仰ぎ、つねに使いを送り、往来している\xA1
これは メッセージ 1 (may7idaho さん)への返信です.