現在の焼肉は。。三国人のウリジナル
投稿者: manila_rendezvous 投稿日時: 2009/01/12 03:43 投稿番号: [47392 / 73791]
戦後、占領下の日本では砂糖を始め、米、肉、酒等あらゆる物が統制品で、これらを自由に購入できるのは戦勝国(ファーストカントリー)の人間であり、敗戦国(セカンドカントリー)の人間は配給される粗末な物で我慢するか、高い金を払って闇市で進駐軍の横流し品を購入するしかなかった。戦争当事者以外の扱いであった日本の支配下にあったサードカントリーの民(三国人)は日本人のように統制は受けなかったが、何分にも物が無い時代にあって、金も無いため、テキヤ系の新興ヤクザの使い走りのような形で進駐軍の残飯や旧日本軍の民間放出品を調達した。代表的なものが、燃料用のメチルアルコールやヒロポンであり、多くの人間が失明したり、ポン中となって社会問題となった。肉に至っては進駐軍第一に供用されたため三国人といえども、簡単には手に入れられなかったが内臓系については、放る物(ホルモン)であることから、これら異臭のするもの煮たり焼いたりしてを何とか食い物にできるようにしたのが現在日本で韓国料理と呼ばれるものの原型であるが、どさくさまぎれで景気の良かった半島出身の三国人達にもやがて運命を左右する出来事が起きる。朝鮮戦争である。
祖国のために帰る者も中にはいたのだろうが、大半の連中は日本に残り、金を使って親族を日本に密入国させ、やがて朝鮮特需で日本が高度成長に乗るや、「強制連行」を声高に叫び、特別在留と在日特権を手にいれた。その後、遊戯業やスチームバス業、不動産業等で成功した者も多く、ホルモン屋もいつしか焼き肉屋となった。1960年代の日本では、まだ肉料理は特権階級のもので、肉料理と言えばスエヒロのステーキや、すき焼きを指し、ホルモンから昇格したとは言え、屑肉を使ったニンニク臭い焼肉の事を「朝鮮焼」と当時東京では呼んでいたが、東京では在日の多い、御徒町や錦糸町、新小岩などに有り、「朝鮮焼」と聞いただけで臭いと顔を顰める人が多く、一般的ではなかった。68年の日韓条約締結で国交が開かれた頃には、日本は世界第2の経済大国として豊かな生活を謳歌し、「朝鮮焼」もいつしかまともな肉を贅沢に薬味を使って料理する「焼肉屋」となった。国交が開かれるや、元三国人達は故郷に錦を飾ろうと大挙して南朝鮮を訪れた。
当時の南朝鮮は外国人や帰国者以外は外国産たばこを購入出来ない法律が有り、米は外国人の宿泊するホテル以外は貧弱で白米は食べられず玄米に粟や稗を混ぜたものが食堂では出されており、80年代初頭までその様な状況であった。故郷に錦を飾ろうと元三国人達は日本から大量の米と当時販売されたばかりのセブンスター、そして朴大統領お気に入りのシーバスリーガルを担ぎ屋のアジュマを使って山のように持ち込んだ。金に物を言わせ、キーセンパーティーを興じ当時貧しかった人々のヒンシュクを買った。しかしながら、せっかく故郷に帰ってもろくな食い物もないことから、我が故国でも「焼肉」を食べたいと考えた元三国人達であるが本々朝鮮では肉を食べない(貧乏で食べられない。。肉と言えば犬)ことから、食肉は農耕用の年老いた牛くらいのもので入手が困難であり、調味料に漬け込んで焼くと身が縮み上がって焼肉に出来るような代物ではないため、日本のジンギスカン鍋にヒントを得て、洗面器を裏返した様な鉄板に肉を貼り付け、大量の肉汁が周りの溝のたまり、そこにキムチや野菜を入れて煮込み、わずかな肉と共に食するもを元三国人が韓国内に広めた。これがいつの間にか、中国伝来の肉の焼物で古代朝鮮の宮廷ではプルコキと呼ばれた料理があるが、代表的な韓式料理としてすり替わることとなった。韓国でこの様なジンギスカンまがいのプルコキが現在の様な日本式の鉄板に変わったのは、まともな肉が手に入るようになった88オリンピック前後であったと記憶している。
結局のところ、「焼肉」なるものは日本の元三国人による涙ぐましいアイディアの決勝なのだチョン、チョン。
祖国のために帰る者も中にはいたのだろうが、大半の連中は日本に残り、金を使って親族を日本に密入国させ、やがて朝鮮特需で日本が高度成長に乗るや、「強制連行」を声高に叫び、特別在留と在日特権を手にいれた。その後、遊戯業やスチームバス業、不動産業等で成功した者も多く、ホルモン屋もいつしか焼き肉屋となった。1960年代の日本では、まだ肉料理は特権階級のもので、肉料理と言えばスエヒロのステーキや、すき焼きを指し、ホルモンから昇格したとは言え、屑肉を使ったニンニク臭い焼肉の事を「朝鮮焼」と当時東京では呼んでいたが、東京では在日の多い、御徒町や錦糸町、新小岩などに有り、「朝鮮焼」と聞いただけで臭いと顔を顰める人が多く、一般的ではなかった。68年の日韓条約締結で国交が開かれた頃には、日本は世界第2の経済大国として豊かな生活を謳歌し、「朝鮮焼」もいつしかまともな肉を贅沢に薬味を使って料理する「焼肉屋」となった。国交が開かれるや、元三国人達は故郷に錦を飾ろうと大挙して南朝鮮を訪れた。
当時の南朝鮮は外国人や帰国者以外は外国産たばこを購入出来ない法律が有り、米は外国人の宿泊するホテル以外は貧弱で白米は食べられず玄米に粟や稗を混ぜたものが食堂では出されており、80年代初頭までその様な状況であった。故郷に錦を飾ろうと元三国人達は日本から大量の米と当時販売されたばかりのセブンスター、そして朴大統領お気に入りのシーバスリーガルを担ぎ屋のアジュマを使って山のように持ち込んだ。金に物を言わせ、キーセンパーティーを興じ当時貧しかった人々のヒンシュクを買った。しかしながら、せっかく故郷に帰ってもろくな食い物もないことから、我が故国でも「焼肉」を食べたいと考えた元三国人達であるが本々朝鮮では肉を食べない(貧乏で食べられない。。肉と言えば犬)ことから、食肉は農耕用の年老いた牛くらいのもので入手が困難であり、調味料に漬け込んで焼くと身が縮み上がって焼肉に出来るような代物ではないため、日本のジンギスカン鍋にヒントを得て、洗面器を裏返した様な鉄板に肉を貼り付け、大量の肉汁が周りの溝のたまり、そこにキムチや野菜を入れて煮込み、わずかな肉と共に食するもを元三国人が韓国内に広めた。これがいつの間にか、中国伝来の肉の焼物で古代朝鮮の宮廷ではプルコキと呼ばれた料理があるが、代表的な韓式料理としてすり替わることとなった。韓国でこの様なジンギスカンまがいのプルコキが現在の様な日本式の鉄板に変わったのは、まともな肉が手に入るようになった88オリンピック前後であったと記憶している。
結局のところ、「焼肉」なるものは日本の元三国人による涙ぐましいアイディアの決勝なのだチョン、チョン。
これは メッセージ 47373 (yumiwo1896 さん)への返信です.