悲惨なソ連軍参謀手記 ノモンハン 1
投稿者: may7idaho 投稿日時: 2007/04/27 09:12 投稿番号: [16711 / 73791]
確かに、よほど、日本軍が勝利していた事は認めたくないようですね。
面積で言えば、静岡、神奈川、東京、千葉を足したような広い面積で、随所で二ヶ月にわたって、戦車5000輌近くが衝突した『大会戦』であるクルスク戦を『一地域』として引用されてもね〜・・・
象と蟻でも比較ですか?
『ノモンハン戦の後、フィンランドとの戦いが始まった。ナチス・ドイツは、われわれの戦闘能力を知っていた。そして、ここでも、われわれは世界の物笑いになった。
一師団がノモンハンでの失敗を繰り返し、包囲され全滅したのだ』
ノモンハンでの失敗を繰り返し・・・よほど酷い目に遭ったということでしょうね。
『ジューコフ将軍はすでにノモンハン戦を自賛する内容の著書を出版していた。
それを知らないシェフチェンコ大佐は、出版許可を取るため報告書をジューコフ将軍に渡したが、激怒した将軍はシェフチェンコ大佐を怒鳴りつけ報告書を自分の金庫に葬った。
報告書がその後どうなったのかは不明だが、歴史のためにも捜し出し出版することは問題とはならないだろう。この労作は興味深く、示唆に富む内容のはずである。』
ソ連軍の損害は、かなり隠蔽されてますね。
今後、こういった資料がさらに発掘されると、本当のソ連軍の損害は、さらに大きくなりそうですね(大笑)。
3年前に発掘されて、翻訳されていますから、最新の、と言ってもいいようなソ連軍参謀の手記です。勝ち戦とはとても思えませんね〜(笑)。
ソ連軍が全滅続きになった理由がよく分かりますよ。
『ノモンハン事件 元ソ連参謀本部大佐手記詳訳
ソ連側も日本以上の犠牲者を出し、混乱していた様子を克明に記した元参謀本部士官、故ノボブラネツ大佐の手記がロシアの歴史専門雑誌「戦史公文書第五巻」に掲載された。大佐は手記の中で、軍を指揮した同国の英雄、ジューコフ将軍が報告書を隠蔽し戦史を大きくねじ曲げたとも批判している。手記の詳訳を掲載する。
私たちがモンゴル−満州国境のチタに到着するまでに、国境での事件は大規模な衝突に発展していた。チタには前線の空気が充満していた。
ザバイカルと極東管区では予備役の招集がかかった。すでに前線司令部も設置され、司令官にシュテルン陸軍大将、参謀長にはクズネツェフ少将が任命されていた。
ハルヒン・ゴル(ノモンハン)付近にいた部隊は、三つの飛行連隊と二つの戦車旅団、砲兵数連隊が増強され、第一軍に再編された。全軍の司令官にはジューコフ将軍が任命された。
最高指揮官や司令部の知識や作戦能力が試されるとともに、下士官と兵卒は勇気と規律、新しい武器を使いこなす能力が求められた。
率直に認めれば、赤軍兵士と若手指揮官だけが申し分のない状態にあった。彼らだけが事態の深刻さを認識し、いつでも命令を遂行する態勢にあった。赤軍兵士はこの地で赤軍の耐久力を試そうとする日本人の意欲をそいでおかねばならないことを承知していた。
しかし、ジューコフ将軍率いる第一軍司令部の行動は満足できる状態にはなかった。
「楽勝だと大言を吐いた」がゆえに、全く正当化されない巨大な損失が生じたのだ。
私たちは二週間、防衛する日本の師団を攻撃したが、一日に八十−百メートル前進しただけだった。
各部隊の共同作戦はなく、おおまかな作戦計画をかたくなに守り、それぞれが独自に行動していた。
戦車の助けを得られない歩兵は、日本軍の銃撃で死んでいった。
航空部隊も敵後方を攻撃しながら、戦場の歩兵を支援しなかった。通信技術は完全にまずかった。すでに無線はソビエトの人々の生活にも浸透していたが、部隊との連絡には使用されず、司令部は戦闘を操る基本的手段を持たなかった。
戦闘の初期は、司令部はいつも各部隊からの連絡士官で人だかりができていた。ジューコフ将軍は技術的進歩を無視し、ナポレオン時代のように連絡のためだけに士官を使っていたのだ。
連絡士官らは戦場に戻る途中、果てしない大草原で道に迷い、砂丘の中を迷走しているうちに銃撃されて死んだ。
私たちの側の七師団に対し日本は不完全な二師団。端数を切り捨てて有利に見れば四対一。戦車と大砲の数では圧倒的に優位に立っていた。
損失でも私たちは悲しくも「優越」していた。チタでは死傷者の数がおびただしく、その多くはただちにイルクーツクへ運ばれ、さらにシベリアのあらゆる都市を通ってソ連の欧州部、クリミアやカフカスの保養地へと送られていった。
われわれは勝利を世界中に喧伝(けんでん)する必要などなかったし、ソビエトの人民を欺いてはならなかった。
必要なのは、ノモンハンの悲劇的経験からまじめな結論を導くことだった。
続く
面積で言えば、静岡、神奈川、東京、千葉を足したような広い面積で、随所で二ヶ月にわたって、戦車5000輌近くが衝突した『大会戦』であるクルスク戦を『一地域』として引用されてもね〜・・・
象と蟻でも比較ですか?
『ノモンハン戦の後、フィンランドとの戦いが始まった。ナチス・ドイツは、われわれの戦闘能力を知っていた。そして、ここでも、われわれは世界の物笑いになった。
一師団がノモンハンでの失敗を繰り返し、包囲され全滅したのだ』
ノモンハンでの失敗を繰り返し・・・よほど酷い目に遭ったということでしょうね。
『ジューコフ将軍はすでにノモンハン戦を自賛する内容の著書を出版していた。
それを知らないシェフチェンコ大佐は、出版許可を取るため報告書をジューコフ将軍に渡したが、激怒した将軍はシェフチェンコ大佐を怒鳴りつけ報告書を自分の金庫に葬った。
報告書がその後どうなったのかは不明だが、歴史のためにも捜し出し出版することは問題とはならないだろう。この労作は興味深く、示唆に富む内容のはずである。』
ソ連軍の損害は、かなり隠蔽されてますね。
今後、こういった資料がさらに発掘されると、本当のソ連軍の損害は、さらに大きくなりそうですね(大笑)。
3年前に発掘されて、翻訳されていますから、最新の、と言ってもいいようなソ連軍参謀の手記です。勝ち戦とはとても思えませんね〜(笑)。
ソ連軍が全滅続きになった理由がよく分かりますよ。
『ノモンハン事件 元ソ連参謀本部大佐手記詳訳
ソ連側も日本以上の犠牲者を出し、混乱していた様子を克明に記した元参謀本部士官、故ノボブラネツ大佐の手記がロシアの歴史専門雑誌「戦史公文書第五巻」に掲載された。大佐は手記の中で、軍を指揮した同国の英雄、ジューコフ将軍が報告書を隠蔽し戦史を大きくねじ曲げたとも批判している。手記の詳訳を掲載する。
私たちがモンゴル−満州国境のチタに到着するまでに、国境での事件は大規模な衝突に発展していた。チタには前線の空気が充満していた。
ザバイカルと極東管区では予備役の招集がかかった。すでに前線司令部も設置され、司令官にシュテルン陸軍大将、参謀長にはクズネツェフ少将が任命されていた。
ハルヒン・ゴル(ノモンハン)付近にいた部隊は、三つの飛行連隊と二つの戦車旅団、砲兵数連隊が増強され、第一軍に再編された。全軍の司令官にはジューコフ将軍が任命された。
最高指揮官や司令部の知識や作戦能力が試されるとともに、下士官と兵卒は勇気と規律、新しい武器を使いこなす能力が求められた。
率直に認めれば、赤軍兵士と若手指揮官だけが申し分のない状態にあった。彼らだけが事態の深刻さを認識し、いつでも命令を遂行する態勢にあった。赤軍兵士はこの地で赤軍の耐久力を試そうとする日本人の意欲をそいでおかねばならないことを承知していた。
しかし、ジューコフ将軍率いる第一軍司令部の行動は満足できる状態にはなかった。
「楽勝だと大言を吐いた」がゆえに、全く正当化されない巨大な損失が生じたのだ。
私たちは二週間、防衛する日本の師団を攻撃したが、一日に八十−百メートル前進しただけだった。
各部隊の共同作戦はなく、おおまかな作戦計画をかたくなに守り、それぞれが独自に行動していた。
戦車の助けを得られない歩兵は、日本軍の銃撃で死んでいった。
航空部隊も敵後方を攻撃しながら、戦場の歩兵を支援しなかった。通信技術は完全にまずかった。すでに無線はソビエトの人々の生活にも浸透していたが、部隊との連絡には使用されず、司令部は戦闘を操る基本的手段を持たなかった。
戦闘の初期は、司令部はいつも各部隊からの連絡士官で人だかりができていた。ジューコフ将軍は技術的進歩を無視し、ナポレオン時代のように連絡のためだけに士官を使っていたのだ。
連絡士官らは戦場に戻る途中、果てしない大草原で道に迷い、砂丘の中を迷走しているうちに銃撃されて死んだ。
私たちの側の七師団に対し日本は不完全な二師団。端数を切り捨てて有利に見れば四対一。戦車と大砲の数では圧倒的に優位に立っていた。
損失でも私たちは悲しくも「優越」していた。チタでは死傷者の数がおびただしく、その多くはただちにイルクーツクへ運ばれ、さらにシベリアのあらゆる都市を通ってソ連の欧州部、クリミアやカフカスの保養地へと送られていった。
われわれは勝利を世界中に喧伝(けんでん)する必要などなかったし、ソビエトの人民を欺いてはならなかった。
必要なのは、ノモンハンの悲劇的経験からまじめな結論を導くことだった。
続く