日本軍の上海戦もドイツ国防軍指揮に圧勝
投稿者: may7idaho 投稿日時: 2007/04/22 14:24 投稿番号: [16434 / 73791]
上海の戦いの事を書いた本で、この上海上陸戦が日本軍の電撃作戦である事、中国軍の指揮をとっていたのは、最大時で600人も派遣されていたドイツ国防軍の参謀、将校である事や、一方的に負けていった時に、ドイツ軍将校があまりの完敗に、次々と自決した事は、出てない本はないのですが?
上海の前の戦いの、中国軍の連戦連敗時も、現場指揮はドイツ国防軍がとっています。
>それでは中国軍はなぜこのような惨敗を喫したのだろうか?
理由の一つはドイツ国防軍の失敗だが塹壕への依拠である。この時ドイツ国防軍は前線だけでも、100名以上の軍事顧問将校を派遣し事実上前線軍の指揮をとっていた。そして中国軍の敗因には第1次大戦のドイツ軍の失敗と重なるところが多い。
まず中国軍は塹壕に頼りすぎた。本来塹壕とは即興で必要な地点に作るべきもので、恒久施設と考えてはならないのではないか。
第二に現在地死守の姿勢である。これにより強化された機関銃ポスト(トーチカ)に密集して兵員を置く誤りを生じた。日本軍の重砲の威力は第1次大戦のものとは比較にならない。第1次大戦では野砲75ミリが主流だったが陸軍は100ミリ、150ミリの重砲をむしろ主力としていた。口径の3乗に炸薬量は比例するから破壊力の点で問題にならない。重砲だから歩兵とともに前進はできないが、前面の密集した敵には効果が絶大だった。また砲術も独特のものがあり、間接射撃でも目標に集中、除々に増大させる方法をとり入れ敵兵に大きな恐怖を与えた。
国軍の総予備が到着できなかったことだろう。これは鉄道が揚子江沿岸を走っていたためだ。鉄道が海(河)岸線を走っていては軍用の役にたたない。開戦前に研究すべきだった。せめて内陸に軽便鉄道などは用意すべきだった。これは退却戦のときも捕捉される原因となった。
ただ総予備が到着したとして果たして日本軍の浸透戦術を防戦できたかはわからない。
第五に便衣への依存である。中国兵は通常降伏せず、制服を投げ捨て民間人(便衣)の服に着替え攻撃を続行した。これを人民戦争とかゲリラ戦といって擁護するむきもあるがとんでもない誤りである。孤立した民間人の服に着替えた兵士はなにも効果的なことはできない。またこれは戦時国際法違反(と思われる。実際は想定していない。)だから他の民間人も含め射殺の対象となってしまう。これも第1次大戦でドイツ軍(敵地で戦ったため。ロシア軍もタンネンベルグ戦でナイデンブルグに於いてこの事態に遭遇、町を徹底破壊した。)が多く経験したが、民間人の服を着た人間が兵士を射殺したら、それは戦闘行為でなく殺人である。
ドイツ軍は、この報復として通例住民多数を処刑した。この件はしかも戦後ベルギーを除いて連合国は戦争犯罪に問わなかった。
中国軍にとり効果的な方法は将校が先頭にたち降伏し、それを外国通信社などに公開することである。そうすれば、捕虜の殺害は困難となる。射殺されるより捕虜の後送は敵軍に一層の負担をかける。ただこういった一般的な降伏はともかく兵員の投降についても中国軍は禁止していたようである。個人投降する際は一切の武器を棄て、動かず、相手国兵士の言葉で投降意思を告げなければいけない。この時、学生部隊を除いて中国兵で日本語のできる兵士は少なかった。
ドイツ人らはヒンデンブルグ線と仮称した防衛線を江陰から無錫の線で引いたようだが、これがどの程度準備された防衛線か不明である。(蒋介石書簡によると、7月12日馮玉祥に塹壕および関連施設の作成を命じている。)ともかく大場鎮陥落後、算を乱した敗走となった。ドイツの軍事顧問団に過度に依存した結果だろう。
ドイツ人の関与は前線防御という作戦・戦術面に限定されていた。
そして前線のドイツ人が自決した後は無秩序のまま追撃戦に遭遇してしまった。
中国人は師団を師と呼称した。しかし内情は近代軍を一知半解としたものだった。すなわち帝国陸軍の師団(4単位)は4個歩兵連隊を基幹とし、様々な機能を随伴させている。<
上海の前の戦いの、中国軍の連戦連敗時も、現場指揮はドイツ国防軍がとっています。
>それでは中国軍はなぜこのような惨敗を喫したのだろうか?
理由の一つはドイツ国防軍の失敗だが塹壕への依拠である。この時ドイツ国防軍は前線だけでも、100名以上の軍事顧問将校を派遣し事実上前線軍の指揮をとっていた。そして中国軍の敗因には第1次大戦のドイツ軍の失敗と重なるところが多い。
まず中国軍は塹壕に頼りすぎた。本来塹壕とは即興で必要な地点に作るべきもので、恒久施設と考えてはならないのではないか。
第二に現在地死守の姿勢である。これにより強化された機関銃ポスト(トーチカ)に密集して兵員を置く誤りを生じた。日本軍の重砲の威力は第1次大戦のものとは比較にならない。第1次大戦では野砲75ミリが主流だったが陸軍は100ミリ、150ミリの重砲をむしろ主力としていた。口径の3乗に炸薬量は比例するから破壊力の点で問題にならない。重砲だから歩兵とともに前進はできないが、前面の密集した敵には効果が絶大だった。また砲術も独特のものがあり、間接射撃でも目標に集中、除々に増大させる方法をとり入れ敵兵に大きな恐怖を与えた。
国軍の総予備が到着できなかったことだろう。これは鉄道が揚子江沿岸を走っていたためだ。鉄道が海(河)岸線を走っていては軍用の役にたたない。開戦前に研究すべきだった。せめて内陸に軽便鉄道などは用意すべきだった。これは退却戦のときも捕捉される原因となった。
ただ総予備が到着したとして果たして日本軍の浸透戦術を防戦できたかはわからない。
第五に便衣への依存である。中国兵は通常降伏せず、制服を投げ捨て民間人(便衣)の服に着替え攻撃を続行した。これを人民戦争とかゲリラ戦といって擁護するむきもあるがとんでもない誤りである。孤立した民間人の服に着替えた兵士はなにも効果的なことはできない。またこれは戦時国際法違反(と思われる。実際は想定していない。)だから他の民間人も含め射殺の対象となってしまう。これも第1次大戦でドイツ軍(敵地で戦ったため。ロシア軍もタンネンベルグ戦でナイデンブルグに於いてこの事態に遭遇、町を徹底破壊した。)が多く経験したが、民間人の服を着た人間が兵士を射殺したら、それは戦闘行為でなく殺人である。
ドイツ軍は、この報復として通例住民多数を処刑した。この件はしかも戦後ベルギーを除いて連合国は戦争犯罪に問わなかった。
中国軍にとり効果的な方法は将校が先頭にたち降伏し、それを外国通信社などに公開することである。そうすれば、捕虜の殺害は困難となる。射殺されるより捕虜の後送は敵軍に一層の負担をかける。ただこういった一般的な降伏はともかく兵員の投降についても中国軍は禁止していたようである。個人投降する際は一切の武器を棄て、動かず、相手国兵士の言葉で投降意思を告げなければいけない。この時、学生部隊を除いて中国兵で日本語のできる兵士は少なかった。
ドイツ人らはヒンデンブルグ線と仮称した防衛線を江陰から無錫の線で引いたようだが、これがどの程度準備された防衛線か不明である。(蒋介石書簡によると、7月12日馮玉祥に塹壕および関連施設の作成を命じている。)ともかく大場鎮陥落後、算を乱した敗走となった。ドイツの軍事顧問団に過度に依存した結果だろう。
ドイツ人の関与は前線防御という作戦・戦術面に限定されていた。
そして前線のドイツ人が自決した後は無秩序のまま追撃戦に遭遇してしまった。
中国人は師団を師と呼称した。しかし内情は近代軍を一知半解としたものだった。すなわち帝国陸軍の師団(4単位)は4個歩兵連隊を基幹とし、様々な機能を随伴させている。<