「我あり、故に我思う」
投稿者: perspectiveworld 投稿日時: 2003/06/16 23:52 投稿番号: [1824 / 8733]
>我々は通常教育を受ける時(デカルト・ニュ−トンパラダイム全般においてそうなのですけれど)
>限られた言葉の中での一方通行的理解に同一化する事によって
>得られる評価を得る為に努力をしてきましたよね。
>そして現在に名を残す偉人達でそんな限定的な理解をしていた人など一人もいないですよね。
>という事は我々の社会・教育は・・・・・。我々は個人の責任において両方向の価値観をみすえて
>あらゆる立場で行動して行かなければならないですよね?
↑僕もホントにそう思います、最近特に・・・。
しかも、初めの3行に関しては、かなり危うい事だなとも思いますし。
デカルトが出てきましたので、少し例にとってみたいと思いますが、
有名な「我思う、故に我あり」・・・これがデカルトの【観念論】で、
それをマルクスが否定し「我あり、故に我思う」としたのが【唯物論】。
【観念論】が「自己の意思こそすべての根源である」と考えるのに対し、
【唯物論】は「人間も環境によって変化する“物質”と同じだ」と主張します。
確かに【観念論】の方が、「創造的で前向き」な印象を受けるのに対し、
【唯物論】の方は、なんか「投げやりで受動的」な感じに取れなくもないですから、
通常教育においては【観念論】の方が教え易く都合が良いのかも知れませんね。
(ちなみに僕自身は、【唯物論】派ですが・・・)
最終的にマルクスは、資本主義の下に「自由・平等・平和」は実現できないとし、
さらに、共産主義は順序として「資本主義の後にくるのが望ましい」と唱えます。
だから、ケインズが「マルクスよりゲゼルの精神に多くを学ぶだろう」と言ったのは、
マルクスの極論的主張より(たとえそれが理論として正しいとしても)、
ゲゼルの柔軟性を高く評価したからなんじゃないかと思ったりします。
これは メッセージ 1823 (pjb6111 さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1143582/a1yc0a43a6jbfoba4r4ja4a6a5ha5ta1y_1/1824.html