anywhere you want to go 様へ 2,
投稿者: pjb6111 投稿日時: 2003/06/12 01:29 投稿番号: [1798 / 8733]
失礼いたしました。しかし今日のサッカ-(全日本対パラグアイ)はなかなか
Be Here
Nowで面白かったですねぇ。先日の全仏テニスの杉山のダブルスも同様に面白かった。
さて続きをいきます。
◆内省による現在時制への集約
ここは少し難しいですが、(逆質問です)
Q1,この内省の主体はなにか?
→anywhere様ご自身?自分自身のどこ?
→自我(客観的言語構造化された理性)? それとも純粋理性?その判断の根拠は?
→自己(主観的イメ−ジ構造化された感 性)?
→それとももっと他のもの?霊性的なも の?その根拠は?直観?霊感?この21 世紀に?
→それぞれの妥当性及び問題点はご理解頂けるでしょうか?
→客観的理性には社会的・教育的・古い科学的妥当性があります。しかしそれらは二元論の集積である為、人間が使用する場合とんでもない「影」を産み出しますよねぇ。
→主観的感性は人間的・生物社会的・情緒的な妥当性があります。しかしそれらは好き嫌いや快−不快原則にのっとる為、それらは個人の自由ではあるのだが、集団的になると又妥当性のない対立を産み出しますよねぇ。
→次の霊性は本当は妥当性があるのですが、通常我々の認識における社会的妥当性はない、と思われますので、ここではいったん横に置いておきましょう。
Q2,とするとこの内省の主体はなにか?
又内省するという行為の妥当性はあるのか?
われわれは親子関係・学校での師弟関係・社会での上下関係などにおいて、数多くの反省・内省をしてきました。しかしそれは
Be Here Nowという対現実において成されてきたでしょうか?それは親や教師・上司が暗黙のうちに望む答をこたえてきたのではないでしょうか?
おわかりでしょうか?これが日本における西洋理性的教育なのです。なお西洋においてはその根元にキリスト教的前提がある為にそこそこバランスはとれていましたが、日本では軍部の国家神道を奉っての暴走による敗戦などのため、いわゆる信仰心がうすくなっているのです。(ここには又他の問題がありますが)
つまり現在の我々にとって、内省による現在時制への集約など基本的には不可能なのです。
ですから同じ過ちを何度も何度も繰り返すのです。
しかしその不可能性が本当に見えたならば、やがて真実は見えてくるようになりますが、それは又次の機会にしましょう。
次にそちらからの質問にお答します。
Q1,Be Here Nowという形で現在時制に集約し、ご自身の主体的行為の選択肢をどのように優先させ、順序だてて行使しているのか?
A,あるがまま、あえて順位をつけると
1,緊急を要する重要なこと。
2,緊急ではないが重要なこと。
3,普通の事。
4,つまらん事。(社会的には大事と思われていることが多いかも)
ゆえにいまだにピ−ピ−暮らしの在家出家状態。
Q2,問いかける行為そのものが、双方の主体性をもたらすのか?
A,問う主体性、応える主体性はあるし
逆もある。しかし質問の意味するところは
全体的存在としての人間の行為的主体性をもたらすか否か?という事でしょうね。
否、もたらしません。
但し、問いかけ(推察)→行動→自省・他省
→思考の繰り返しにより、可能かもしれません。保証はありません。それを決定ずけるのは、我々一人一人の在りかたによります。
我々一人一人は微々たる存在です。しかしうまく力をあわす事ができれば、平和を実現する事も可能なのです。
これからも宜しくお願いネ、anywhere様の立場やご職業、主観的にお話いただいた方が、変化・変容は起こりやすいのですが、もし差し支えなければ。
なおまたこの文章を私のトビに掲載する事をお許しください。
では今回はこの位でゴメンください。
Nowで面白かったですねぇ。先日の全仏テニスの杉山のダブルスも同様に面白かった。
さて続きをいきます。
◆内省による現在時制への集約
ここは少し難しいですが、(逆質問です)
Q1,この内省の主体はなにか?
→anywhere様ご自身?自分自身のどこ?
→自我(客観的言語構造化された理性)? それとも純粋理性?その判断の根拠は?
→自己(主観的イメ−ジ構造化された感 性)?
→それとももっと他のもの?霊性的なも の?その根拠は?直観?霊感?この21 世紀に?
→それぞれの妥当性及び問題点はご理解頂けるでしょうか?
→客観的理性には社会的・教育的・古い科学的妥当性があります。しかしそれらは二元論の集積である為、人間が使用する場合とんでもない「影」を産み出しますよねぇ。
→主観的感性は人間的・生物社会的・情緒的な妥当性があります。しかしそれらは好き嫌いや快−不快原則にのっとる為、それらは個人の自由ではあるのだが、集団的になると又妥当性のない対立を産み出しますよねぇ。
→次の霊性は本当は妥当性があるのですが、通常我々の認識における社会的妥当性はない、と思われますので、ここではいったん横に置いておきましょう。
Q2,とするとこの内省の主体はなにか?
又内省するという行為の妥当性はあるのか?
われわれは親子関係・学校での師弟関係・社会での上下関係などにおいて、数多くの反省・内省をしてきました。しかしそれは
Be Here Nowという対現実において成されてきたでしょうか?それは親や教師・上司が暗黙のうちに望む答をこたえてきたのではないでしょうか?
おわかりでしょうか?これが日本における西洋理性的教育なのです。なお西洋においてはその根元にキリスト教的前提がある為にそこそこバランスはとれていましたが、日本では軍部の国家神道を奉っての暴走による敗戦などのため、いわゆる信仰心がうすくなっているのです。(ここには又他の問題がありますが)
つまり現在の我々にとって、内省による現在時制への集約など基本的には不可能なのです。
ですから同じ過ちを何度も何度も繰り返すのです。
しかしその不可能性が本当に見えたならば、やがて真実は見えてくるようになりますが、それは又次の機会にしましょう。
次にそちらからの質問にお答します。
Q1,Be Here Nowという形で現在時制に集約し、ご自身の主体的行為の選択肢をどのように優先させ、順序だてて行使しているのか?
A,あるがまま、あえて順位をつけると
1,緊急を要する重要なこと。
2,緊急ではないが重要なこと。
3,普通の事。
4,つまらん事。(社会的には大事と思われていることが多いかも)
ゆえにいまだにピ−ピ−暮らしの在家出家状態。
Q2,問いかける行為そのものが、双方の主体性をもたらすのか?
A,問う主体性、応える主体性はあるし
逆もある。しかし質問の意味するところは
全体的存在としての人間の行為的主体性をもたらすか否か?という事でしょうね。
否、もたらしません。
但し、問いかけ(推察)→行動→自省・他省
→思考の繰り返しにより、可能かもしれません。保証はありません。それを決定ずけるのは、我々一人一人の在りかたによります。
我々一人一人は微々たる存在です。しかしうまく力をあわす事ができれば、平和を実現する事も可能なのです。
これからも宜しくお願いネ、anywhere様の立場やご職業、主観的にお話いただいた方が、変化・変容は起こりやすいのですが、もし差し支えなければ。
なおまたこの文章を私のトビに掲載する事をお許しください。
では今回はこの位でゴメンください。
これは メッセージ 1793 (anywhere_you_want_to_go さん)への返信です.
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