anywhere you want to go 様へ 1,
投稿者: p_jazz6111 投稿日時: 2003/06/11 19:42 投稿番号: [1797 / 8733]
anywhere様の深い探求心に感服・感謝致します。客観的・主観的認識だけでなく,行為における意識・無意識的主感の変化に至るまで,納得されるまで
お付き合い致します。
その他の皆様も是非ご参加ください。平和について考える事も、平和を想い願う事も、平和・反戦活動する事も、とても大切で正しい事かもしれません。しかし部分的に正しい事も全体的には、そうではないのではないでしょうか?そこのところをとことん追求したいと思います。我々の知・情・意の行為的統一と平和が実現しますように。
その為には常に第三・第四の立場の人にご参加頂き、我々の日常的行為の上にのっとった議論を展開したいと思います。
なおこれはここトピの話として、私のト
ピにも遊びにきて欲しいな ---- 。
社会学「真の心の健康と世界の平和共存の為に」トピと健康と医学−全般−「自助努力
for Mental Health」トピで−−−す。
ちょっと無意識的「影」を扱うと誰もこん,
「影」の克服なくして「平和に至る道」なんかないぜよ!!!!!!!
ではanywhere様へ 1,
まず誤解の起こりやすいところを御指摘・補足させていただきます。
◆観念の構図
・現存する〜によって作り上げてきた。
→作り上げられてきた。
客体的・無意識的側面の比率のほうがはるかに高く・広いからです。
・そのわたしたちの観念は〜かつ根本的錯覚の上に成り立っている。
→この根本的錯覚は、例えば「人生は矛盾に満ちており、あたかも幻・マ−ヤ−のごとくだ」の人生をあたかも・・・・という錯覚ではなく、意識と無意識の相補的関係性における錯覚、ニュ-トン・デカルト的パラダイムにおける科学的言語が絶対的真理だと勘違いする錯覚であります。(そんなもの一つもありませんよ)そしてそれらは1960-1970年代に世界中の識者と学生達により議論・追及され、量子力学的世界観やゲ−デルの不完全性の定理などによって,又
心理的な面においては、第四の心理学・トランスパ−ソナル心理学などによって、ほぼ統一された、妥当性がある、といっても良い、と思われます。東洋においては心の探求は紀元前にほぼ終り、3〜5世紀には成文化されており、その妥当性が西洋的にも認められたのが1970年頃、という訳であります。
・それは、わたしたちは、〜誰かの意見の刷り込み〜に基づく場合があり、〜主体的行為の第一人者に成り得ていない。
→こんな事をいうと、とんでもない、と思われるでしょうが、我々の意識界(言葉やイメ−ジで指し示す事ができるもの)はほぼ
100%「環境による刷り込み」なのです。つまり我々は主観的であろうと、客観的であろうと(それぞれの妥当性はあるのですが)その判断のほぼ100%は内在化した,つまり刷り込まれた環境なのです。そして全ての人はそれをはるかに超越する全体的な存在でありながら、客観的以上に主体的存在とはなり得ていない、のです。つまり本来主体的存在で有るにもかかわらず、内在化された環境に圧倒されている、従う事を自分自身で受け入れている、という事であり、しかしその原因や結果を対立相手?に「投影」し戦争をおこす、という事なのです。
そしてそれは、殆どの精神的疾患の持ち主は、正しくも、無意識的本当の自分と客観的内在化した自分自身の葛藤に苦しんでいるのです。そしてその答を外部に求めるため、基本的には、症状を隠す薬に頼る→たぶん直らない選択をする(社会的に正しい選択,まれに自己治癒力により直ることもある)と言う事なのです。
すいません、ちょっと食事のため、中断して一旦送ります。では又後ほど・・・。
その他の皆様も是非ご参加ください。平和について考える事も、平和を想い願う事も、平和・反戦活動する事も、とても大切で正しい事かもしれません。しかし部分的に正しい事も全体的には、そうではないのではないでしょうか?そこのところをとことん追求したいと思います。我々の知・情・意の行為的統一と平和が実現しますように。
その為には常に第三・第四の立場の人にご参加頂き、我々の日常的行為の上にのっとった議論を展開したいと思います。
なおこれはここトピの話として、私のト
ピにも遊びにきて欲しいな ---- 。
社会学「真の心の健康と世界の平和共存の為に」トピと健康と医学−全般−「自助努力
for Mental Health」トピで−−−す。
ちょっと無意識的「影」を扱うと誰もこん,
「影」の克服なくして「平和に至る道」なんかないぜよ!!!!!!!
ではanywhere様へ 1,
まず誤解の起こりやすいところを御指摘・補足させていただきます。
◆観念の構図
・現存する〜によって作り上げてきた。
→作り上げられてきた。
客体的・無意識的側面の比率のほうがはるかに高く・広いからです。
・そのわたしたちの観念は〜かつ根本的錯覚の上に成り立っている。
→この根本的錯覚は、例えば「人生は矛盾に満ちており、あたかも幻・マ−ヤ−のごとくだ」の人生をあたかも・・・・という錯覚ではなく、意識と無意識の相補的関係性における錯覚、ニュ-トン・デカルト的パラダイムにおける科学的言語が絶対的真理だと勘違いする錯覚であります。(そんなもの一つもありませんよ)そしてそれらは1960-1970年代に世界中の識者と学生達により議論・追及され、量子力学的世界観やゲ−デルの不完全性の定理などによって,又
心理的な面においては、第四の心理学・トランスパ−ソナル心理学などによって、ほぼ統一された、妥当性がある、といっても良い、と思われます。東洋においては心の探求は紀元前にほぼ終り、3〜5世紀には成文化されており、その妥当性が西洋的にも認められたのが1970年頃、という訳であります。
・それは、わたしたちは、〜誰かの意見の刷り込み〜に基づく場合があり、〜主体的行為の第一人者に成り得ていない。
→こんな事をいうと、とんでもない、と思われるでしょうが、我々の意識界(言葉やイメ−ジで指し示す事ができるもの)はほぼ
100%「環境による刷り込み」なのです。つまり我々は主観的であろうと、客観的であろうと(それぞれの妥当性はあるのですが)その判断のほぼ100%は内在化した,つまり刷り込まれた環境なのです。そして全ての人はそれをはるかに超越する全体的な存在でありながら、客観的以上に主体的存在とはなり得ていない、のです。つまり本来主体的存在で有るにもかかわらず、内在化された環境に圧倒されている、従う事を自分自身で受け入れている、という事であり、しかしその原因や結果を対立相手?に「投影」し戦争をおこす、という事なのです。
そしてそれは、殆どの精神的疾患の持ち主は、正しくも、無意識的本当の自分と客観的内在化した自分自身の葛藤に苦しんでいるのです。そしてその答を外部に求めるため、基本的には、症状を隠す薬に頼る→たぶん直らない選択をする(社会的に正しい選択,まれに自己治癒力により直ることもある)と言う事なのです。
すいません、ちょっと食事のため、中断して一旦送ります。では又後ほど・・・。
これは メッセージ 1793 (anywhere_you_want_to_go さん)への返信です.
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