絞首刑は残虐・・憲法違反
投稿者: dorawasabi5001 投稿日時: 2012/03/10 01:15 投稿番号: [17447 / 17759]
元最高検検事土本武司『私が絞首刑に疑念を呈した理由とは?』
2011.11.9産経ニュース
死刑については、制度自体の存廃論が激しく戦わされてきて、
執行方法である絞首刑の是非論は、その陰に隠れてきた観がある。
そうした中で、大阪地裁がこの2011/10月31日、
大阪市で平成21年に起きたパチンコ店放火殺人事件の、裁判員裁判の判決公判で、
殺人などの罪に問われた被告(高見素直43)に求刑通り死刑を言い渡した際に、
「死刑はそもそも生命を奪って罪を償う刑罰。ある程度の苦痛やむごたらしさはやむを得ない」として、
絞首刑を合憲とする判断を示した。
裁判で、絞首刑について「限りなく(憲法が禁じた)残虐に近い」と証言した私(土本武司)は、
この判断(大阪地裁和田真裁判長)に違和感を禁じ得ない。
以下、その理由を論じる。
≪死刑制度自体は存置すべし≫
最初に断っておくが、私(土本武司)は死刑は存置すべきだとの立場である。
なぜなら、憲法31条の反対解釈によって、「法律の定める手続き」に従う限り死刑は許されており、内閣府の世論調査で、国民の85%超が存置を支持しているからだ。死刑の是非が国民多数の正義感情、法的確信に基づき決されるべきであることは言うまでもない。
だが、絞首刑という執行方法に関しては、
「残虐」な執行は許さないという憲法36条の規定との関係において問題があると思う。
その考え方の根本には、国家としての矜恃(きょうじ)という理念がある。
残虐な手段で被害者を殺害した犯人を、
残虐な方法で刑に処すことは刑罰の応報性、罪刑均衡の原則からしても、許されるべきであるという主張は、多くの人の共感を呼ぶ。
だが、国家は被害者の代理人ではない。
独自の立場で刑罰権を行使する国家としての矜恃から、刑は残虐であってはならない。
絞首刑が残虐でないといえるか。
≪斬首刑よりも残虐な刑罰?≫
・・
絞首刑は、近代文明前から、縛り首の刑罰として自然発生的に生まれてきた。
しかし、
(1)受刑者に過大な衝撃を与える
(2)絶命までに長時間を要する
(3)方法が陰惨である−などから、
斬首よりも残虐な刑罰とされてきた。
死刑を存置する先進国の米国では19世紀末、絞首刑の残虐性が問題化し、
20世紀初めにかけて電気殺刑が広がり、絞首刑を取る州はほとんどなくなった。
電気殺刑も2008年にネブラスカ州最高裁で、
「残虐で異常な刑」と判断され大半の州が注射刑に転じた。
死刑制度を維持する国でも執行方法に進化がみられ、
それは、受刑者の苦痛を軽減し残虐の程度を抑える方向を辿ってきたのである。
・・だが、絞首刑のどこに残虐性があるのか、
3点から科学的、具体的に検討してみる必要がある。
≪苦痛、損傷、惨たらしさ…≫
第一に、絞首刑は受刑者に不必要な肉体的、精神的苦痛を与えることにならないかという点だ。
かつては、絞縄を回した頸部に体重が作用した瞬間、受刑者は人事不省に陥って意識を喪失し、苦痛を感じないと説かれていたが、近時の法医学は、それは誤りであると証明している。
絞縄を「適切」な位置に置いても、落下時の衝撃で「不適切」な位置に移動することがあって、「死ぬに死ねないで苦しむ」という状態が生じ得る。
第二に、不必要に受刑者の身体を損傷しはしないか、である。踏み板が開いて落下するとき、頭部が離断したりする。絞縄が伸びきるまでに落下したときの衝撃は、絞縄がかかる首に集中する。
外観は損傷がなくても、頸部の内部臓器が破壊されている例が少なくない。受刑者ごとに、頸部離断という事態の発生の有無を事前に予見することは不可能なのである。
第三に、一般人に惨(むご)たらしいとの心情を抱かせはしないか、だ。受刑者に肉体的苦痛を与えないようにするだけなら、ギロチンのような、瞬時に首が切断される方法の方がましだろう。
しかし、道義的、文化的な視点からも配慮しなければならない。現行の絞首刑方式は、死者の名誉を含め人間の尊厳を害する要素が少なくない。
総合すると、絞首刑は限りなく「残虐」に近いものだと言わざるを得ない。
憲法36条は残虐な刑罰を「絶対」に禁じている。
例外のない、程度の差を問わない趣旨として理解しなければならない。・・
(土本武司つちもと たけし)
http://blog.goo.ne.jp/rdxcv99/e/c30d26b00f3657f36028879d3a33844b
http://www.k4.dion.ne.jp/~yuko-k/kiyotaka/i
2011.11.9産経ニュース
死刑については、制度自体の存廃論が激しく戦わされてきて、
執行方法である絞首刑の是非論は、その陰に隠れてきた観がある。
そうした中で、大阪地裁がこの2011/10月31日、
大阪市で平成21年に起きたパチンコ店放火殺人事件の、裁判員裁判の判決公判で、
殺人などの罪に問われた被告(高見素直43)に求刑通り死刑を言い渡した際に、
「死刑はそもそも生命を奪って罪を償う刑罰。ある程度の苦痛やむごたらしさはやむを得ない」として、
絞首刑を合憲とする判断を示した。
裁判で、絞首刑について「限りなく(憲法が禁じた)残虐に近い」と証言した私(土本武司)は、
この判断(大阪地裁和田真裁判長)に違和感を禁じ得ない。
以下、その理由を論じる。
≪死刑制度自体は存置すべし≫
最初に断っておくが、私(土本武司)は死刑は存置すべきだとの立場である。
なぜなら、憲法31条の反対解釈によって、「法律の定める手続き」に従う限り死刑は許されており、内閣府の世論調査で、国民の85%超が存置を支持しているからだ。死刑の是非が国民多数の正義感情、法的確信に基づき決されるべきであることは言うまでもない。
だが、絞首刑という執行方法に関しては、
「残虐」な執行は許さないという憲法36条の規定との関係において問題があると思う。
その考え方の根本には、国家としての矜恃(きょうじ)という理念がある。
残虐な手段で被害者を殺害した犯人を、
残虐な方法で刑に処すことは刑罰の応報性、罪刑均衡の原則からしても、許されるべきであるという主張は、多くの人の共感を呼ぶ。
だが、国家は被害者の代理人ではない。
独自の立場で刑罰権を行使する国家としての矜恃から、刑は残虐であってはならない。
絞首刑が残虐でないといえるか。
≪斬首刑よりも残虐な刑罰?≫
・・
絞首刑は、近代文明前から、縛り首の刑罰として自然発生的に生まれてきた。
しかし、
(1)受刑者に過大な衝撃を与える
(2)絶命までに長時間を要する
(3)方法が陰惨である−などから、
斬首よりも残虐な刑罰とされてきた。
死刑を存置する先進国の米国では19世紀末、絞首刑の残虐性が問題化し、
20世紀初めにかけて電気殺刑が広がり、絞首刑を取る州はほとんどなくなった。
電気殺刑も2008年にネブラスカ州最高裁で、
「残虐で異常な刑」と判断され大半の州が注射刑に転じた。
死刑制度を維持する国でも執行方法に進化がみられ、
それは、受刑者の苦痛を軽減し残虐の程度を抑える方向を辿ってきたのである。
・・だが、絞首刑のどこに残虐性があるのか、
3点から科学的、具体的に検討してみる必要がある。
≪苦痛、損傷、惨たらしさ…≫
第一に、絞首刑は受刑者に不必要な肉体的、精神的苦痛を与えることにならないかという点だ。
かつては、絞縄を回した頸部に体重が作用した瞬間、受刑者は人事不省に陥って意識を喪失し、苦痛を感じないと説かれていたが、近時の法医学は、それは誤りであると証明している。
絞縄を「適切」な位置に置いても、落下時の衝撃で「不適切」な位置に移動することがあって、「死ぬに死ねないで苦しむ」という状態が生じ得る。
第二に、不必要に受刑者の身体を損傷しはしないか、である。踏み板が開いて落下するとき、頭部が離断したりする。絞縄が伸びきるまでに落下したときの衝撃は、絞縄がかかる首に集中する。
外観は損傷がなくても、頸部の内部臓器が破壊されている例が少なくない。受刑者ごとに、頸部離断という事態の発生の有無を事前に予見することは不可能なのである。
第三に、一般人に惨(むご)たらしいとの心情を抱かせはしないか、だ。受刑者に肉体的苦痛を与えないようにするだけなら、ギロチンのような、瞬時に首が切断される方法の方がましだろう。
しかし、道義的、文化的な視点からも配慮しなければならない。現行の絞首刑方式は、死者の名誉を含め人間の尊厳を害する要素が少なくない。
総合すると、絞首刑は限りなく「残虐」に近いものだと言わざるを得ない。
憲法36条は残虐な刑罰を「絶対」に禁じている。
例外のない、程度の差を問わない趣旨として理解しなければならない。・・
(土本武司つちもと たけし)
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