“平和ボケ”のお部屋

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Re: 理とは、

投稿者: assaraamaaleicomnjp 投稿日時: 2009/02/13 21:46 投稿番号: [16140 / 17759]
>AがBを害することは、BはAから害されたことを意味する。

これは当然ですよねえ。

>BがAから害されないためには、AがBを害さなければよい。

どちらかの力が圧倒的に強かったり、同じような倫理観を共有していなかったりしてもこれは成り立つというわけですか?たとえば日米関係とか日朝関係なども同様ですか?

>これが、理である。

たとえば、この民主主義国家の日本の中で、「二人以上の理のわかる人」が決めるとして、これは誰の意志で、誰によって任命されて、誰によって同意されるんでしょうか?オオタグロさんのお話では、これを理解できる人は少ないとのことですが(もちろん私もその一人な訳ですが)、もし主権者である在民の多くが理解できないことをいったい誰がどういう権利で決定できるのか、私にははなはだ理解に苦しむところです。
たとえば郵政民営化のような主張を選挙に声高に叫んだ非常に限られた議論を持ち出した人の中に必ずそういう人がいるとは限らないわけですから、国民の唯一の権利の行使である選挙での選出も、必ずしもあてにならないわけですよねえ?


>A、B共に、相手から害されないことを望むならば、
>A、B共に、相手を害さなければよい。
>これが、公共の福祉。

私の知っている限り、成田闘争のときには、国策としての空港整備のための土地買収に関して「公共の福祉」が語られましたし、少なくともそのことによって自分の意志に反して土地を奪われた被害者意識を持った人たちが国家と戦っていたはずです。日本の「人権」の規定によると、「公共の利便性の向上」ということを名目としては、いかなる場合も人権を侵す理由にはなり得ないはずです。
しかし、そういう意味で、あの時代の「国家」は、「公共の福祉」を名目として三里塚の住民の権利を侵害していたことは間違いありません。そしてそれは、昔の封建制度さながら、「お国の利益のために少数が犠牲になることも時には仕方のないことだ」的な考え方の中で、公然と不法が見逃されたことはおそらく私の勘違いではなく、れっきとした事実だと感じています。

「個人が最高の価値であるのならば、その個人の人権を制限できるものは別の個人の人権でなければなりません。つまり個人の人権を制限する根拠は、別の個人の人権保障にあるのです。」
http://www.jicl.jp/chuukou/backnumber/09.html

昔はある意味その理解が浸透していない場合もあり、ある程度仕方がなかったのでしょう。しかし、何度も書きますが、近年においてもなお、成田闘争は終結をみないし、新たに、諫早湾のような同じような問題が次々と繰り返されます。

しかも諫早問題では、ほとんど国の工事によって恩恵を被る「個人」は存在しないで、逆に被害を受ける海苔業者を生み出してしまいました。恩恵を受けたのは、工事に関係した業者や、意地が通ったというようなくだらない満足感を満たした役人のプライドに対してだけだったのではなかったでしょうか?

日本においてこのような「公共の福祉」を名目にした「人権無視」が行われていた(る)ということは認めますよねえ?


そして、オオタグロさんが書いていた、公共の利便性の向上のためには多数意見が少数意見に勝るというような考え方は間違いであると思いますがいかがでしょうか?
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