Re: 公共の福利 と 公共の利便性向上
投稿者: assaraamaaleicomnjp 投稿日時: 2009/02/10 03:41 投稿番号: [16126 / 17759]
>公共の福祉
と
公共の利便性向上
の区別ができていないのでは?
実際的な問題として、成田闘争というのは、国家により「公共の福祉」を名目として、少数の弱者が虐げられたという歴史的な認識があるわけです。
で、はじめに戻りますが、あの時代の「公共の福祉」の解釈が現代のそれと違うということであるとしても、しかしそれでも未だに未解決で、現在継続して闘争中であるという事実もあるわけで、近年の改良された解釈によっても依然として弱者が虐げられている・・。
また、比較的最近に起こった諫早湾の問題にしても、おそらくは多くの海苔生産業者が国策によって、「公共の福祉」の名の下にその生活権を奪われているという事実が存在しているわけです。
つまり、この国においては、「公共の福祉」と「公共の利便性の向上」というものが非常にご都合主義的に権力者によって使い分けられているということなのではないでしょうか?
>理に適っていない場合は絶対に変革されます。
>歪みによるエネルギーが蓄積されると、何らかのきっかけによってエネルギーは解放され、
>反動が生じた後、適正な状態に至ります。
ハハハ、私は門外漢ですが、それは「絶対」という言葉は使わない方がいいのではないでしょうか?
たとえば昨日書いた久米さんのラジオでも、中谷巌という人の、「私は間違えていた」という趣旨の本(題名は失念)の紹介部分で、おそらくはアダムスミスの国富論あたりから出てきているであろう市場原理「神の見えざる手」によって最終的には適正な状態に戻るとした理論は、それは結局は「上流階級による支配のためのツール」でしかないのではないだろうか?みたいなことが書かれているらしくて、昨今の新自由主義的な考え方は「幻想」にすぎないかもしれないというような見解もあるということでしたよねえ?
結局情報を多く持つことのできる立場の人の都合によって、その人に有利な社会システムになることが分かり切っているという意味で、私たちは「幻想」の中で不平等を恣意的に押しつけられているという意味で騙されているのでは無かろうか?というようなことを、書いている部分があるということを久米さんは語っていました。・・・これも私は前々からそういうことを感じていて、素直にうなずけます。
それでなくとも、仮に「絶対に変革される」ことが事実だとしても、いつとは知れぬ不公平な社会の中で是正されぬまま、最低でもその変革に費やされる時間を無為に費やすことを余儀なくされる人たちは必ず存在するわけです。
>経済的歪みは、恐慌を引き起こした後、適正な状態に戻ります。
しかも太宰の書いた「絶望」は、おそらくは経済だけなどではなく、人類発生から延々と続いてきた社会的摂理のようなものとして感じているという節が伺えます。
>真理を掴むだけでは意味がありません。
>真理から適正状態である基準を導き出し、
>歪みを少なくすることによって、反動を少なくする必要があります。
オオタグロさんの書き方は「真理はある」という考え方を示していますが、私は「真理があるかどうか疑わしい(おそらくは無いだろう)」という立場です。
つまりオオタグロさんの言うところの人権の定義を云々するという問題は、はじめから「人権」の存在を疑っていないという意味で、ドラさんと立場を同じくしていますよねえ?
私ははじめから、人権も真理と同じようで、人類の共通認識としての普遍的な存在としてはあるかどうか疑わしい(おそらくは無いだろう)ということを前提にして書いているわけです。
実際的な問題として、成田闘争というのは、国家により「公共の福祉」を名目として、少数の弱者が虐げられたという歴史的な認識があるわけです。
で、はじめに戻りますが、あの時代の「公共の福祉」の解釈が現代のそれと違うということであるとしても、しかしそれでも未だに未解決で、現在継続して闘争中であるという事実もあるわけで、近年の改良された解釈によっても依然として弱者が虐げられている・・。
また、比較的最近に起こった諫早湾の問題にしても、おそらくは多くの海苔生産業者が国策によって、「公共の福祉」の名の下にその生活権を奪われているという事実が存在しているわけです。
つまり、この国においては、「公共の福祉」と「公共の利便性の向上」というものが非常にご都合主義的に権力者によって使い分けられているということなのではないでしょうか?
>理に適っていない場合は絶対に変革されます。
>歪みによるエネルギーが蓄積されると、何らかのきっかけによってエネルギーは解放され、
>反動が生じた後、適正な状態に至ります。
ハハハ、私は門外漢ですが、それは「絶対」という言葉は使わない方がいいのではないでしょうか?
たとえば昨日書いた久米さんのラジオでも、中谷巌という人の、「私は間違えていた」という趣旨の本(題名は失念)の紹介部分で、おそらくはアダムスミスの国富論あたりから出てきているであろう市場原理「神の見えざる手」によって最終的には適正な状態に戻るとした理論は、それは結局は「上流階級による支配のためのツール」でしかないのではないだろうか?みたいなことが書かれているらしくて、昨今の新自由主義的な考え方は「幻想」にすぎないかもしれないというような見解もあるということでしたよねえ?
結局情報を多く持つことのできる立場の人の都合によって、その人に有利な社会システムになることが分かり切っているという意味で、私たちは「幻想」の中で不平等を恣意的に押しつけられているという意味で騙されているのでは無かろうか?というようなことを、書いている部分があるということを久米さんは語っていました。・・・これも私は前々からそういうことを感じていて、素直にうなずけます。
それでなくとも、仮に「絶対に変革される」ことが事実だとしても、いつとは知れぬ不公平な社会の中で是正されぬまま、最低でもその変革に費やされる時間を無為に費やすことを余儀なくされる人たちは必ず存在するわけです。
>経済的歪みは、恐慌を引き起こした後、適正な状態に戻ります。
しかも太宰の書いた「絶望」は、おそらくは経済だけなどではなく、人類発生から延々と続いてきた社会的摂理のようなものとして感じているという節が伺えます。
>真理を掴むだけでは意味がありません。
>真理から適正状態である基準を導き出し、
>歪みを少なくすることによって、反動を少なくする必要があります。
オオタグロさんの書き方は「真理はある」という考え方を示していますが、私は「真理があるかどうか疑わしい(おそらくは無いだろう)」という立場です。
つまりオオタグロさんの言うところの人権の定義を云々するという問題は、はじめから「人権」の存在を疑っていないという意味で、ドラさんと立場を同じくしていますよねえ?
私ははじめから、人権も真理と同じようで、人類の共通認識としての普遍的な存在としてはあるかどうか疑わしい(おそらくは無いだろう)ということを前提にして書いているわけです。
これは メッセージ 16122 (t_ohtaguro_2 さん)への返信です.
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