Re: 被害者遺族の感情と死刑廃止(1)
投稿者: assaraamaaleicomnjp 投稿日時: 2009/01/24 23:06 投稿番号: [15995 / 17759]
いわゆる人権主義者のいう死刑廃止論と、日本の護憲派の平和憲法保持の姿勢はよく似ていると思います。
(1)犯罪者がいかに卑劣な犯罪で人を殺したとしても、被害にあった人の遺族はいかなる理由があろうとも、その犯罪者を国家の保護の下に帰され、ある一定の制限の下に許さなければならないし、ましてや国家による死刑は絶対に実施されてはならないとする。
(2)日本の周囲に居並ぶ諸外国がいかなる武力で攻撃してこようとも、日本は憲法に書かれた不戦の精神を貫き、あくまで非武装非核で対応することが必要だ。
(1) も(2)も、他に他者としての自立した個人なり国家の存在があり、そこからの悪意な行動を自分たちの意志では阻止することができない状況であるというところがよく似ていますよねえ?
私は先にも書きましたように護憲派を支持していますが、私の思うところのこの両者の違いは、日本国民の多くは、戦争によって多大な後悔と反省の下に、「二度と戦争をしない」ということをある時期に決意するに至る十分な理由があるということだけではないだろうかと思っています。
たとえある一時期にしても、日本において、心の底から「反戦」という共通のコンセンサスができあがったということが重要だと思います。
一方、「死刑」については、根拠の曖昧な西欧の受け売りによる人権思想があり、冤罪や、看守という職業の人に対する同情の心を利用した、その本質とは違う方向性による印象操作による廃止論の啓蒙が存在しています。実際の日本国民としてのいわゆる「骨身にしみた」総意による決意のようなものは何もありません。
また、「人を国家の手で殺してはならない」という一つの思想らしきものは、現在においてもなお、軍隊を持ち、武器を生産するという欧米先進国自体が作り出したものであり、また依然としてその国家においてさえ、戦争は否定されていないという意味においても、この思想らしきものの矛盾に行き当たります。
そういう意味において、私は、死刑廃止論と、反戦論は、一見似ているけれども非なるものであるということができると思います。
※ 死刑廃止論は、戦後日本などの比較的裕福な国においての行き過ぎた人権論による過保護的な擁護論であり、この誰にも(神というような権威という意味でも)是認されていないにもかかわらず、いかにも本質的な正義を物語っているかのように信じられているように見える思想の中に正当らしき錯覚が生じ、たとえば言葉狩りや放送禁止歌に代表されるような人間関係を希薄にするような、一つの悪しき慣習が作り出されたのではないだろうか?というようなことまで考えてしまいます。
※ こういう意味では、一番はじめに戻りますが、行き過ぎた「愛」の解釈の末路というか、近年の欧米発の動物愛護の問題や、捕鯨反対運動の問題に非常に近いものを感じてしまいます。
>被害者の心のわだかまりとか、感情を一切解消できるものが【死刑】でも不可能と思いますし、
問題は、国家的な「システムとして」、一方的に「無念」をはらす機会が剥奪されてしまうということですよ。
>被害者にしてみれば、【殺されていなくても】殺したいくらい憎い加害者もいるでしょう。
>という事は、今の司法では【被害者の要求を全て受け入れることは不可能】です。
そんなことは当たり前のことです。
どんなシステムになろうとも、被害者の要求を「すべて」受け入れるなどとは誰も思っていませんよ。オオタグロさんも書いておられましたが、「殺人」に見合った刑罰の存在に意味があるんです。
>人権とは、やはり【殺さない・・どんな人間でも生きさせる】という事だと思います。
何度も書きましたが、これは誰がそう決めたのですか?
>人権を信奉すると他者を傷つけると、仰るわけですね。
傷つける「可能性がある」と書いています。
>やはり【人権・・・生きる権利】とすれば、殺人者でも仕方ない・・国が殺すことは許せない事だと私は思っています。
なんか被害者が納得できるようないい解決方法はありますか?
(1)犯罪者がいかに卑劣な犯罪で人を殺したとしても、被害にあった人の遺族はいかなる理由があろうとも、その犯罪者を国家の保護の下に帰され、ある一定の制限の下に許さなければならないし、ましてや国家による死刑は絶対に実施されてはならないとする。
(2)日本の周囲に居並ぶ諸外国がいかなる武力で攻撃してこようとも、日本は憲法に書かれた不戦の精神を貫き、あくまで非武装非核で対応することが必要だ。
(1) も(2)も、他に他者としての自立した個人なり国家の存在があり、そこからの悪意な行動を自分たちの意志では阻止することができない状況であるというところがよく似ていますよねえ?
私は先にも書きましたように護憲派を支持していますが、私の思うところのこの両者の違いは、日本国民の多くは、戦争によって多大な後悔と反省の下に、「二度と戦争をしない」ということをある時期に決意するに至る十分な理由があるということだけではないだろうかと思っています。
たとえある一時期にしても、日本において、心の底から「反戦」という共通のコンセンサスができあがったということが重要だと思います。
一方、「死刑」については、根拠の曖昧な西欧の受け売りによる人権思想があり、冤罪や、看守という職業の人に対する同情の心を利用した、その本質とは違う方向性による印象操作による廃止論の啓蒙が存在しています。実際の日本国民としてのいわゆる「骨身にしみた」総意による決意のようなものは何もありません。
また、「人を国家の手で殺してはならない」という一つの思想らしきものは、現在においてもなお、軍隊を持ち、武器を生産するという欧米先進国自体が作り出したものであり、また依然としてその国家においてさえ、戦争は否定されていないという意味においても、この思想らしきものの矛盾に行き当たります。
そういう意味において、私は、死刑廃止論と、反戦論は、一見似ているけれども非なるものであるということができると思います。
※ 死刑廃止論は、戦後日本などの比較的裕福な国においての行き過ぎた人権論による過保護的な擁護論であり、この誰にも(神というような権威という意味でも)是認されていないにもかかわらず、いかにも本質的な正義を物語っているかのように信じられているように見える思想の中に正当らしき錯覚が生じ、たとえば言葉狩りや放送禁止歌に代表されるような人間関係を希薄にするような、一つの悪しき慣習が作り出されたのではないだろうか?というようなことまで考えてしまいます。
※ こういう意味では、一番はじめに戻りますが、行き過ぎた「愛」の解釈の末路というか、近年の欧米発の動物愛護の問題や、捕鯨反対運動の問題に非常に近いものを感じてしまいます。
>被害者の心のわだかまりとか、感情を一切解消できるものが【死刑】でも不可能と思いますし、
問題は、国家的な「システムとして」、一方的に「無念」をはらす機会が剥奪されてしまうということですよ。
>被害者にしてみれば、【殺されていなくても】殺したいくらい憎い加害者もいるでしょう。
>という事は、今の司法では【被害者の要求を全て受け入れることは不可能】です。
そんなことは当たり前のことです。
どんなシステムになろうとも、被害者の要求を「すべて」受け入れるなどとは誰も思っていませんよ。オオタグロさんも書いておられましたが、「殺人」に見合った刑罰の存在に意味があるんです。
>人権とは、やはり【殺さない・・どんな人間でも生きさせる】という事だと思います。
何度も書きましたが、これは誰がそう決めたのですか?
>人権を信奉すると他者を傷つけると、仰るわけですね。
傷つける「可能性がある」と書いています。
>やはり【人権・・・生きる権利】とすれば、殺人者でも仕方ない・・国が殺すことは許せない事だと私は思っています。
なんか被害者が納得できるようないい解決方法はありますか?
これは メッセージ 15992 (dorawasabi5001 さん)への返信です.
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