Re: “平和ボケ”・・長幼の差
投稿者: assaraamaaleicomnjp 投稿日時: 2008/08/15 11:54 投稿番号: [15761 / 17759]
私ものんびりしているので、時間のあるときにお返事ください。
>>私はそもそも因果応報が基本だと思っているので、人を殺したら自分もその死に値するだけの罪科が発生するのは当然だと思っています。
>だとすると【母子に酷い虐待を加えていた(母親は何度も自殺未遂し、挙句に自殺)光市事件の加害少年の父親は、何の処罰も受けていません。
「罪と罰」という小説がありましたが、(勿論私は読みませんが)ドラさんのおっしゃるところの「罰」は、他から強要されるところのモノですよねえ?ドラさんは、厳罰主義でしたっけ?
「罪」というのは、自分の内側で自ら感じるモノであるはずですよねえ?
「あの少年の背後には様々な悪が存在しており、その集合体となってあの悲惨な事件が起きたわけだから、それを誘発し、それに関わった諸悪は全て断罪されるべきだ・・・・」ではなくて、あの父親は、それなりの報いを受けているのではないでしょうか?
日本の法律では長い間、確か、家庭内の喧嘩程度では不介入が原則でしたが、このところのDVの認識によって相当改善したと言うことですが、権力筋にそれ以上の介入を許すのが妥当だと思いますか?・・・例えばその介入の線引きをどこにするのか?というような厳密な領域をしっかり持っていますか?
※ 私の知っている人の中には、その生い立ちの過程において、その両親から、もの凄い精神的肉体的な虐待を受けた人もいますが、その人に限れば、殺人などを行う人格には育ちませんでした。虐待を受けて駄目になる人も多いとは思いますが、やはりそれ以上の人がそう言う逆境にも負けずに強く生きているというのも実情ではないでしょうか?
だから、「殺人を行った人は駄目だ」といいきるつもりもないのですが、殺人を行った理由をそこにだけ見つけて「彼らも被害者の一人だ」として彼らの罪があたかも個人の責任ではないと言い切ることも、いたずらにその責任の所在を曖昧にするだけで、なんの改善(けじめの付け方)にもならないのじゃないだろうか?と思います。
>>こういう死刑問題で言われ尽くされていると思いますが、犯罪者の人権が重視されるあまり、被害者の人権は全く顧みられないと言う被害者側からの不満があることを・・
>光市事件の場合、【人権保護】が重視されてはいないと。
しかし、被害者の母子の無念はどこで晴らせばいいのか?ということです。
>>元々私は、「精神病」や「未成年だから」等での殺人行為が、どうして減>>罪(有罪無罪の判定の根拠)の対象になるのか?さえ分かりません。
>未成年はまだ保護が必要、特に環境に恵まれなかった者は。
>精神病者は治療の対象です。
現行法ではそうなんでしょうねえ?
しかし私は、あくまで一個の人格として一人の人間をとらえる方がいいと思っているので、一人の人間をいくつかの人格で分けて、それぞれの人格が違うモノと規定してその上で、特定の区分に対して罪を問うというのは、何かおかしいと思うんですよねえ?
悔い改めよとかいって、キリストに帰依したら元の罪は全て精算されるというようなモノとは別の宗教観が存在してもいいと思っているんですよ。よく知らないけれど、多くの死刑廃止国というのは、キリスト教を母体にしている国なんじゃないのですかねえ?
これは大乗仏教の浄土真宗の親鸞の言葉ですが、「悪人正機」というような、自分の犯した罪が大きければ大きいほど、それに対する罪の大きさを感じるはずだから、そう言う反省の中で生きている人こそより救われるはずだとした、そう言う見方もありだと思うんですよねえ。「恩讐の彼方に」という小説は、そう言う(決して他人から問われるような罪とか、それによって強制される罰とかではない、)個人の内心の中での「罪」のあり方をとらえているんじゃなかろうか?とか感じたんです。
>>私はそもそも因果応報が基本だと思っているので、人を殺したら自分もその死に値するだけの罪科が発生するのは当然だと思っています。
>だとすると【母子に酷い虐待を加えていた(母親は何度も自殺未遂し、挙句に自殺)光市事件の加害少年の父親は、何の処罰も受けていません。
「罪と罰」という小説がありましたが、(勿論私は読みませんが)ドラさんのおっしゃるところの「罰」は、他から強要されるところのモノですよねえ?ドラさんは、厳罰主義でしたっけ?
「罪」というのは、自分の内側で自ら感じるモノであるはずですよねえ?
「あの少年の背後には様々な悪が存在しており、その集合体となってあの悲惨な事件が起きたわけだから、それを誘発し、それに関わった諸悪は全て断罪されるべきだ・・・・」ではなくて、あの父親は、それなりの報いを受けているのではないでしょうか?
日本の法律では長い間、確か、家庭内の喧嘩程度では不介入が原則でしたが、このところのDVの認識によって相当改善したと言うことですが、権力筋にそれ以上の介入を許すのが妥当だと思いますか?・・・例えばその介入の線引きをどこにするのか?というような厳密な領域をしっかり持っていますか?
※ 私の知っている人の中には、その生い立ちの過程において、その両親から、もの凄い精神的肉体的な虐待を受けた人もいますが、その人に限れば、殺人などを行う人格には育ちませんでした。虐待を受けて駄目になる人も多いとは思いますが、やはりそれ以上の人がそう言う逆境にも負けずに強く生きているというのも実情ではないでしょうか?
だから、「殺人を行った人は駄目だ」といいきるつもりもないのですが、殺人を行った理由をそこにだけ見つけて「彼らも被害者の一人だ」として彼らの罪があたかも個人の責任ではないと言い切ることも、いたずらにその責任の所在を曖昧にするだけで、なんの改善(けじめの付け方)にもならないのじゃないだろうか?と思います。
>>こういう死刑問題で言われ尽くされていると思いますが、犯罪者の人権が重視されるあまり、被害者の人権は全く顧みられないと言う被害者側からの不満があることを・・
>光市事件の場合、【人権保護】が重視されてはいないと。
しかし、被害者の母子の無念はどこで晴らせばいいのか?ということです。
>>元々私は、「精神病」や「未成年だから」等での殺人行為が、どうして減>>罪(有罪無罪の判定の根拠)の対象になるのか?さえ分かりません。
>未成年はまだ保護が必要、特に環境に恵まれなかった者は。
>精神病者は治療の対象です。
現行法ではそうなんでしょうねえ?
しかし私は、あくまで一個の人格として一人の人間をとらえる方がいいと思っているので、一人の人間をいくつかの人格で分けて、それぞれの人格が違うモノと規定してその上で、特定の区分に対して罪を問うというのは、何かおかしいと思うんですよねえ?
悔い改めよとかいって、キリストに帰依したら元の罪は全て精算されるというようなモノとは別の宗教観が存在してもいいと思っているんですよ。よく知らないけれど、多くの死刑廃止国というのは、キリスト教を母体にしている国なんじゃないのですかねえ?
これは大乗仏教の浄土真宗の親鸞の言葉ですが、「悪人正機」というような、自分の犯した罪が大きければ大きいほど、それに対する罪の大きさを感じるはずだから、そう言う反省の中で生きている人こそより救われるはずだとした、そう言う見方もありだと思うんですよねえ。「恩讐の彼方に」という小説は、そう言う(決して他人から問われるような罪とか、それによって強制される罰とかではない、)個人の内心の中での「罪」のあり方をとらえているんじゃなかろうか?とか感じたんです。
これは メッセージ 15754 (dorawasabi5001 さん)への返信です.
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