処刑現場で
投稿者: dorawasabi5001 投稿日時: 2008/02/12 23:57 投稿番号: [15557 / 17759]
落ちてくる死刑囚を受け止める係がいるらしい。
処刑の実態を国民に周知させるべきですね。
★鎌田 慧さん
ジャーナリスト
死ぬるため生くる我が独房
・・
たしかに、人間がひとを裁くかぎり、誤判がないことなどありえない。といって、もしも、一件の冤罪もないとしたなら、死刑があってもいい、といい切れるのだろうか。としたなら、すべての死刑囚をみすててしまう、という問題に直面したのである。
新聞やテレビで「凶悪犯罪」が報じられると、
「親の顔がみたい」
「悪いことをしたなら、自決しろ」
「やっつけろ」
との感情をむきだしにした声がとりあげられる。
「被害者の感情をどうするんだ」
「お前が被害者だったら、そんなきれいごとをいえるか」
そればかりならまだしも、「無期懲役」の判決がでると、「死刑にしてほしかった」との遺族の悲痛な声がつたえられる。そういわせられている遺族の姿がことさら悲しい。眼には眼を、憎悪の悪循環である。マスコミはその憎悪を商品化している。悲しみに沈み遺族の想いが、はたして、人間としての極限の表現が、「殺せ」の二文字に集約できるのであろうか。殺してはたして、気持ちが浄化できるものであろうか。
息子を殺され、苦悩のすえ「死刑廃止運動」にたちあがったアメリカの女性が、死刑執行によって、息子の記憶を汚したくない、というのを聞いて、考えさせられるようになった。
だれも被害者の遺族に、「殺せ」という感情を捨てろ、ということはできない。しかし、死刑制度があるからこそ、遺族は極刑としての「死刑」をもとめる。もしも、死刑制度がなくなったら、それ以外の極刑をもとめることであろう。
死刑制度があるかぎり、世に「殺せ」との殺伐とした声がわき起こる。この制度のパラドックスは、ひとを殺してはいけない、という国家が、命令によってひとを殺すことにある。憎悪の感情によって、死刑制度が維持され、その制度によって憎悪の感情が維持されている。きわめて古い国家像である。
悪人は抹殺せよ、裁判はその合法的な手段にすぎない。
中国では年間,数千人が処刑されている。それでも犯罪が減ったとはきいていない。アメリカには、三七○○人の死刑確定囚がいる。やはり、犯罪が減ったとはきいていない。
日本は九三年三月、「法の秩序と正義の維持」を理由に、それまで三年四ヶ月停止していた死刑が再開され、年に五、六人が処刑されている。それでも、凶悪犯罪は減っていない。つまり、「抑止力」は、フィクションでしかない。
あとは遺族の感情をどう解決するか、の問題である。被害者補償と終身刑の導入がひとつの方法になる。それでも、恩赦と釈放の可能性はありうる。ひとに苦痛をあたえつづけることによって、秩序と正義をたもつ、というのは、恐怖政治の一種でしかない。
日本の死刑は絞首刑である。より人道的な処刑というのは、形容矛盾だが、なかでも絞首刑はもっとも残虐な刑罰である。空中にぶら下がって、悶絶するまで、七分から十五分意識が残っている。
死刑確定囚は、刑場へ迎えにくる係官の足音が、自分の扉の前で止まらないかどうか、聞き耳をたてている、という。一日、一日、小刻みにされた生とは、想像するだけでもたまらない。日本の死刑確定囚は、いま、五六人である。
先進国で死刑制度を存置しているのは、日本とアメリカだけである。
全米五○州のうち、十二州が廃止している。
この野蛮な制度を廃止した国は、七五ヶ国、十年以上執行していないのが、二十ヶ国、通常犯罪だけでも廃止したのが、一四ヶ国、合計一○九ヶ国であり、これにたいして、死刑存置国は、八六ヶ国である。
日本は一刻もはやく、死刑制度を廃絶して、文明国の仲間いりをしてほしい。政治家とジャナリストたちの意識の変革と行動が問われている。
(「本」2001年9月号講談社より、文中の数字は2001年11月末現在)
http://homepage2.nifty.com/shihai/message/message_kamata.html
処刑の実態を国民に周知させるべきですね。
★鎌田 慧さん
ジャーナリスト
死ぬるため生くる我が独房
・・
たしかに、人間がひとを裁くかぎり、誤判がないことなどありえない。といって、もしも、一件の冤罪もないとしたなら、死刑があってもいい、といい切れるのだろうか。としたなら、すべての死刑囚をみすててしまう、という問題に直面したのである。
新聞やテレビで「凶悪犯罪」が報じられると、
「親の顔がみたい」
「悪いことをしたなら、自決しろ」
「やっつけろ」
との感情をむきだしにした声がとりあげられる。
「被害者の感情をどうするんだ」
「お前が被害者だったら、そんなきれいごとをいえるか」
そればかりならまだしも、「無期懲役」の判決がでると、「死刑にしてほしかった」との遺族の悲痛な声がつたえられる。そういわせられている遺族の姿がことさら悲しい。眼には眼を、憎悪の悪循環である。マスコミはその憎悪を商品化している。悲しみに沈み遺族の想いが、はたして、人間としての極限の表現が、「殺せ」の二文字に集約できるのであろうか。殺してはたして、気持ちが浄化できるものであろうか。
息子を殺され、苦悩のすえ「死刑廃止運動」にたちあがったアメリカの女性が、死刑執行によって、息子の記憶を汚したくない、というのを聞いて、考えさせられるようになった。
だれも被害者の遺族に、「殺せ」という感情を捨てろ、ということはできない。しかし、死刑制度があるからこそ、遺族は極刑としての「死刑」をもとめる。もしも、死刑制度がなくなったら、それ以外の極刑をもとめることであろう。
死刑制度があるかぎり、世に「殺せ」との殺伐とした声がわき起こる。この制度のパラドックスは、ひとを殺してはいけない、という国家が、命令によってひとを殺すことにある。憎悪の感情によって、死刑制度が維持され、その制度によって憎悪の感情が維持されている。きわめて古い国家像である。
悪人は抹殺せよ、裁判はその合法的な手段にすぎない。
中国では年間,数千人が処刑されている。それでも犯罪が減ったとはきいていない。アメリカには、三七○○人の死刑確定囚がいる。やはり、犯罪が減ったとはきいていない。
日本は九三年三月、「法の秩序と正義の維持」を理由に、それまで三年四ヶ月停止していた死刑が再開され、年に五、六人が処刑されている。それでも、凶悪犯罪は減っていない。つまり、「抑止力」は、フィクションでしかない。
あとは遺族の感情をどう解決するか、の問題である。被害者補償と終身刑の導入がひとつの方法になる。それでも、恩赦と釈放の可能性はありうる。ひとに苦痛をあたえつづけることによって、秩序と正義をたもつ、というのは、恐怖政治の一種でしかない。
日本の死刑は絞首刑である。より人道的な処刑というのは、形容矛盾だが、なかでも絞首刑はもっとも残虐な刑罰である。空中にぶら下がって、悶絶するまで、七分から十五分意識が残っている。
死刑確定囚は、刑場へ迎えにくる係官の足音が、自分の扉の前で止まらないかどうか、聞き耳をたてている、という。一日、一日、小刻みにされた生とは、想像するだけでもたまらない。日本の死刑確定囚は、いま、五六人である。
先進国で死刑制度を存置しているのは、日本とアメリカだけである。
全米五○州のうち、十二州が廃止している。
この野蛮な制度を廃止した国は、七五ヶ国、十年以上執行していないのが、二十ヶ国、通常犯罪だけでも廃止したのが、一四ヶ国、合計一○九ヶ国であり、これにたいして、死刑存置国は、八六ヶ国である。
日本は一刻もはやく、死刑制度を廃絶して、文明国の仲間いりをしてほしい。政治家とジャナリストたちの意識の変革と行動が問われている。
(「本」2001年9月号講談社より、文中の数字は2001年11月末現在)
http://homepage2.nifty.com/shihai/message/message_kamata.html
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