元刑務官の証言
投稿者: dorawasabi5001 投稿日時: 2007/07/25 23:23 投稿番号: [15301 / 17759]
★戸谷喜一さん
元刑務官
大阪拘置所
私は大阪の拘置所と仙台の拘置所で死刑囚を扱ったことがあります。私がいたときは大阪では執行2日前に告知をしていました。仙台では執行当日でした。処刑というのは何ともいえないことです。結局は、職員が人を殺すことですから。
大阪の拘置所では、ピンポン大会、誕生祝い、映画大会や書道大会が開かれていました。そのためか、「職員にこんなにしてもらっているのはありがたいから、心配かけまい」という気持ちが死刑囚全体にゆき渡っているのでしょう。だからかえって逆に、彼らのほうが職員のかゆいところに手が届くように気を使ってくれるわけです。
職員もまたいずれ殺されていくのだからと、一生懸命に彼らを大事にしていました。
処刑前後の出来事
でも、いざ処刑されるという通知がくると大変なことになります。
私が印象に残っているのは九州出身のある人です。農家の長男だったので、お母さんが家業を継ぐようにと希望しましたが、本人は農業が嫌いで家を飛び出してしまいました。そしてその後、罪を犯して死刑囚になってしまったのです。
当時は大阪では2日前に告知をしましたから、処刑前日に家族との面会がありました。お母さんが九州から食べ物を持ってきてこう言いました。
「おまえが死刑囚で処刑されるけれども本当はお母さんが悪い、おまえに無理やり農家をすすめたのがいけなかった。だからお前は家を飛び出して悪いことをしてしまった。だから罪はお母さんにある。お母さんが処刑されたい」
それに対して「いいや、僕が悪いのです」と死刑囚が言うと、お母さんは彼に話しかけながらも、顔は職員に向けてこう言うのです。
「お前は小学校では成績もよく先生にもほめられ、友だちの喧嘩の仲裁もしたなあ。お前はこんなことをする人間じゃあなかったなあ」
いよいよ4時になると面会も終わりで、お母さんは最後に、「来年の8月のお盆にはお前の好きなものたくさんそろえて待っているからなあ、楽しみにしてこいよ」と言いました。
翌日、九州に戻ったお母さんは、処刑が10時ごろだというので9時から11時までご燈明をあげて仏壇の前でお祈りをしていたそうです。そうしたら、10時ちょっと過ぎに風もないのにふっとお燈明が消えた。一週間後に、大阪にお骨をもらいに来て、職員から死亡時刻を聞いたら、それはちょうどご燈明が消えた時間でした。お母さんはびっくりしてお骨を抱いて泣き崩れました。
死刑囚の思い
ある時のピンポン大会で一人の死刑囚に――本当は職員の個人的なことは言ってはいけないのですが――ポロっと自分はキリスト教信者だと言ってしまいました。そうしたら、その死刑囚もキリスト教徒でした。
それからというもの、何やかや私のとこへ相談には来るし、処刑される前日も会いたいと言ってきて、「綱汚すまじ 首拭く 棺の水」と私に書いて寄こしました。それから、「ふとん様、ぞうきん様、ありがとう」というのも寄こしたのです。
・・
死刑囚たちは一生懸命なだけに、物事の見方や考え方が私よりも深いのです。だから、とても教えられるということがたびたびありました。
刑務官としての苦悩
処刑するというのはどうにも辛抱できません。死刑囚本人は覚悟しとると言いますけれど、処刑日の退所後は自分ではどうしようもないのです。お酒飲んでもだめ、パチンコしてもだめ。
私は困ってバスに乗りました。どこ行きのバスかは知りませんでしたが、終点まで行きました。そしてまたバスに乗って戻って、住吉という所に行きました。
住吉から歩いて田んぼのほうへ行くと稲荷さんの大きな森がありました。私はその中に入りました。もう夜中の12時近くでした。森の中で、「死刑囚よ、お化けでいいから出てくれ!」ってそう言いました。
処遇をし、処刑をする立場にいる者だからこそ、死刑の実態を知っている者だからこそ、死刑をやめてくれ、と言えるのです。
裁判所で判決理由これこれ、あれだけの犯罪を起こしたのだからしょうがないと言い渡しをするわけです。しかし、それだけでは済まされない問題だと思うわけです。
【私は、死刑は残虐な刑だと思います。人間が人間を殺すということは、どんなに手当てをもらってもみんな嫌がります。】
・・
殺さずにすむために
・・
http://homepage2.nifty.com/shihai/message/message_toya.html
元刑務官
大阪拘置所
私は大阪の拘置所と仙台の拘置所で死刑囚を扱ったことがあります。私がいたときは大阪では執行2日前に告知をしていました。仙台では執行当日でした。処刑というのは何ともいえないことです。結局は、職員が人を殺すことですから。
大阪の拘置所では、ピンポン大会、誕生祝い、映画大会や書道大会が開かれていました。そのためか、「職員にこんなにしてもらっているのはありがたいから、心配かけまい」という気持ちが死刑囚全体にゆき渡っているのでしょう。だからかえって逆に、彼らのほうが職員のかゆいところに手が届くように気を使ってくれるわけです。
職員もまたいずれ殺されていくのだからと、一生懸命に彼らを大事にしていました。
処刑前後の出来事
でも、いざ処刑されるという通知がくると大変なことになります。
私が印象に残っているのは九州出身のある人です。農家の長男だったので、お母さんが家業を継ぐようにと希望しましたが、本人は農業が嫌いで家を飛び出してしまいました。そしてその後、罪を犯して死刑囚になってしまったのです。
当時は大阪では2日前に告知をしましたから、処刑前日に家族との面会がありました。お母さんが九州から食べ物を持ってきてこう言いました。
「おまえが死刑囚で処刑されるけれども本当はお母さんが悪い、おまえに無理やり農家をすすめたのがいけなかった。だからお前は家を飛び出して悪いことをしてしまった。だから罪はお母さんにある。お母さんが処刑されたい」
それに対して「いいや、僕が悪いのです」と死刑囚が言うと、お母さんは彼に話しかけながらも、顔は職員に向けてこう言うのです。
「お前は小学校では成績もよく先生にもほめられ、友だちの喧嘩の仲裁もしたなあ。お前はこんなことをする人間じゃあなかったなあ」
いよいよ4時になると面会も終わりで、お母さんは最後に、「来年の8月のお盆にはお前の好きなものたくさんそろえて待っているからなあ、楽しみにしてこいよ」と言いました。
翌日、九州に戻ったお母さんは、処刑が10時ごろだというので9時から11時までご燈明をあげて仏壇の前でお祈りをしていたそうです。そうしたら、10時ちょっと過ぎに風もないのにふっとお燈明が消えた。一週間後に、大阪にお骨をもらいに来て、職員から死亡時刻を聞いたら、それはちょうどご燈明が消えた時間でした。お母さんはびっくりしてお骨を抱いて泣き崩れました。
死刑囚の思い
ある時のピンポン大会で一人の死刑囚に――本当は職員の個人的なことは言ってはいけないのですが――ポロっと自分はキリスト教信者だと言ってしまいました。そうしたら、その死刑囚もキリスト教徒でした。
それからというもの、何やかや私のとこへ相談には来るし、処刑される前日も会いたいと言ってきて、「綱汚すまじ 首拭く 棺の水」と私に書いて寄こしました。それから、「ふとん様、ぞうきん様、ありがとう」というのも寄こしたのです。
・・
死刑囚たちは一生懸命なだけに、物事の見方や考え方が私よりも深いのです。だから、とても教えられるということがたびたびありました。
刑務官としての苦悩
処刑するというのはどうにも辛抱できません。死刑囚本人は覚悟しとると言いますけれど、処刑日の退所後は自分ではどうしようもないのです。お酒飲んでもだめ、パチンコしてもだめ。
私は困ってバスに乗りました。どこ行きのバスかは知りませんでしたが、終点まで行きました。そしてまたバスに乗って戻って、住吉という所に行きました。
住吉から歩いて田んぼのほうへ行くと稲荷さんの大きな森がありました。私はその中に入りました。もう夜中の12時近くでした。森の中で、「死刑囚よ、お化けでいいから出てくれ!」ってそう言いました。
処遇をし、処刑をする立場にいる者だからこそ、死刑の実態を知っている者だからこそ、死刑をやめてくれ、と言えるのです。
裁判所で判決理由これこれ、あれだけの犯罪を起こしたのだからしょうがないと言い渡しをするわけです。しかし、それだけでは済まされない問題だと思うわけです。
【私は、死刑は残虐な刑だと思います。人間が人間を殺すということは、どんなに手当てをもらってもみんな嫌がります。】
・・
殺さずにすむために
・・
http://homepage2.nifty.com/shihai/message/message_toya.html
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