どらさんへ>積慶里の慰安婦
投稿者: forever_omegatribe 投稿日時: 2007/04/12 01:20 投稿番号: [15179 / 17759]
こんばんは、どらさん。
積慶里の慰安婦です。彼女の名は、河君子さんです。中国在留の韓国人慰安婦です。
1928年生まれ。
連行時
ある日、お隣のお姉さんのところへ遊びに行くと、きれいな服を着て、お化粧をしていた。私が、どこでお金を稼いだのと聞くと、日本の工場へ行ってきたと言った。日本へまた行くのと聞いていたら、今度は中国の上海に行くのだという。
お姉さんが私を見て、「一緒に行かない?」と言い、私は「行くのだったら誰が連れて行ってくれるの」とたずねた。そうすると、そのお姉さんは、あなたが行きたいのなら、自分が話してあげるから、そうしなさいと言った。
それからしばらくたって、朝鮮人の男二人が家に訪ねてきた。河床淑はお前だねと聞いて、日本に行っていたお姉さんの名を出して、知っているかどうかたずねた。そのお姉さんの名は朴さんだったと覚えている。知っていると言うと、私に、「お前は日本に行くか、中国に行くか」と聞くので、中国に行くと言った。数日後に、また来て、行くんだねと聞くので、行くと言った。(「中国に連行された朝鮮人慰安婦」P67)
韓国から中国までの旅の途中で彼女は河床淑から河君子へと名を変えました。
そこで知り合った年上の女性から『まだ幼くて、何も知らないようだねと言った。お姉さんたちは、私が若くてかわいそうだとやさしくしてくれた。』(P69)
1944年12月漢口到着。積慶里の慰安所へ。
主人の家に着くと、お姉さんたちが家の前も出て迎えてくれた。私を見て「あんなにまだほんの子供が入ってくるなんて」と言った。その姉さんたちは入って4,5年ぐらいたっていた。はじめてその家に行ったときには、10人以上いた。私と同じいえに一緒に入った女の子は、20人ぐらいだった。主人は私を連れてきてくれた朝鮮人の男に金をやり、その間にかかった汽車賃がいくらで、着物代がいくらだと私に言った。それを私が身を売って返すというのだった。それを返すために3年働かなければならないといった。(P70)
(役所での手続き)
病院で検査を受け、インド人たちが作ったという長江関(江漢関のあやまりと推測される)へ日本人の許可をもらいに行った。長江関は憲兵隊のところを通り過ぎて入っていかねばならない官公署のような所だった。その建物の高い搭には大きな時計があった。日本人たちは女子の年齢が18歳にならなければ、許可証をくれなかった。
私が17歳だったので、主人は許可を出す官吏に金をにぎらせて、年をごまかした。私にも何歳かと聞かれたら18歳だと答えろと言ってそうさせた。
はじめ、日本軍平氏3名を客として迎えた。言うことを聞かなければ殴られるので、反抗しなかった。(P71〜72)
(給与について)
軍人が金を持ってきて私にくれると、私はそれを主人のところに持っていって、サックと紙をもらってきた。軍人にもらう金は中国の金で、額はだいたい1円か2円だった。夜の客よりも昼間の客を取る方が、ちょっと金が少なかった。慰安所は客はみんな日本人の軍人だけだった。軍人は普通1日に10人から15人を相手にした。主人が帳簿に一日に何人相手にしたかを書いた。けれど、主人から金はもらえなかった。(P75)
(それでも)いい軍人達が余分に金を少しずつくれた。金を貯めはしたが、外に出られないので、いくらも使えなかった。家の横で中国の人たちが豆を売っていたので、それを買って食べた。(P75)
積慶里の慰安婦です。彼女の名は、河君子さんです。中国在留の韓国人慰安婦です。
1928年生まれ。
連行時
ある日、お隣のお姉さんのところへ遊びに行くと、きれいな服を着て、お化粧をしていた。私が、どこでお金を稼いだのと聞くと、日本の工場へ行ってきたと言った。日本へまた行くのと聞いていたら、今度は中国の上海に行くのだという。
お姉さんが私を見て、「一緒に行かない?」と言い、私は「行くのだったら誰が連れて行ってくれるの」とたずねた。そうすると、そのお姉さんは、あなたが行きたいのなら、自分が話してあげるから、そうしなさいと言った。
それからしばらくたって、朝鮮人の男二人が家に訪ねてきた。河床淑はお前だねと聞いて、日本に行っていたお姉さんの名を出して、知っているかどうかたずねた。そのお姉さんの名は朴さんだったと覚えている。知っていると言うと、私に、「お前は日本に行くか、中国に行くか」と聞くので、中国に行くと言った。数日後に、また来て、行くんだねと聞くので、行くと言った。(「中国に連行された朝鮮人慰安婦」P67)
韓国から中国までの旅の途中で彼女は河床淑から河君子へと名を変えました。
そこで知り合った年上の女性から『まだ幼くて、何も知らないようだねと言った。お姉さんたちは、私が若くてかわいそうだとやさしくしてくれた。』(P69)
1944年12月漢口到着。積慶里の慰安所へ。
主人の家に着くと、お姉さんたちが家の前も出て迎えてくれた。私を見て「あんなにまだほんの子供が入ってくるなんて」と言った。その姉さんたちは入って4,5年ぐらいたっていた。はじめてその家に行ったときには、10人以上いた。私と同じいえに一緒に入った女の子は、20人ぐらいだった。主人は私を連れてきてくれた朝鮮人の男に金をやり、その間にかかった汽車賃がいくらで、着物代がいくらだと私に言った。それを私が身を売って返すというのだった。それを返すために3年働かなければならないといった。(P70)
(役所での手続き)
病院で検査を受け、インド人たちが作ったという長江関(江漢関のあやまりと推測される)へ日本人の許可をもらいに行った。長江関は憲兵隊のところを通り過ぎて入っていかねばならない官公署のような所だった。その建物の高い搭には大きな時計があった。日本人たちは女子の年齢が18歳にならなければ、許可証をくれなかった。
私が17歳だったので、主人は許可を出す官吏に金をにぎらせて、年をごまかした。私にも何歳かと聞かれたら18歳だと答えろと言ってそうさせた。
はじめ、日本軍平氏3名を客として迎えた。言うことを聞かなければ殴られるので、反抗しなかった。(P71〜72)
(給与について)
軍人が金を持ってきて私にくれると、私はそれを主人のところに持っていって、サックと紙をもらってきた。軍人にもらう金は中国の金で、額はだいたい1円か2円だった。夜の客よりも昼間の客を取る方が、ちょっと金が少なかった。慰安所は客はみんな日本人の軍人だけだった。軍人は普通1日に10人から15人を相手にした。主人が帳簿に一日に何人相手にしたかを書いた。けれど、主人から金はもらえなかった。(P75)
(それでも)いい軍人達が余分に金を少しずつくれた。金を貯めはしたが、外に出られないので、いくらも使えなかった。家の横で中国の人たちが豆を売っていたので、それを買って食べた。(P75)
これは メッセージ 15173 (dorawasabi5001 さん)への返信です.
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