続き
投稿者: dorawasabi5001 投稿日時: 2006/11/13 23:04 投稿番号: [15097 / 17759]
中等学校以上では軍事教練が強化され、軍人勅諭や戦陣訓の暗誦に象徴される軍国主義教育が強制され、英語教育が一段と軽視された。
そのうえ、十八年五月の国民勤労報国協力令改正で、「学徒勤労報国隊」として、男子は農村や工場の勤労奉仕、女子は幼稚園・託児所・保育所への協力にかりだされ、十九年春以後は、全面的に軍需工場や強制疎開工事へ動員されて、勉学を放棄させられた。
これらの若き学徒は各職場でよく働き、学力低下に悩みながら、大事な青春時代にさまざまな経験を積んでいった。
学徒動員
学生の兵役徴集延期打切りが決まった文科系大学生は、十八年十月、小雨降る明治神宮競技場での出陣学徒壮行会を皮切りに、ぞくぞくと出征していった。
かれらは「人生二十五年」というあきらめと決意とを抱いていた。出陣学徒の中には、予備学生としてわずか十七時間の速成飛行訓練で、特攻隊員として沖縄その他の空に散った者が少なくない。
昭和二十年四月十二日、第一四期海軍予備学生で、神風特攻隊第二七生(しちしょう)隊員として沖縄に出撃、戦死した林市造海軍少尉(京大経済学部出身)は、元山(げんざん)航空隊からつぎのような便りを送った。
「お母さん、とうとう悲しい便りを出さねばならないときがきました。
親思ふ心にまさる親心 今日のおとづれ何ときくらむ
この歌がしみじみと思われます。……
晴れて特攻隊員と選ばれて出陣するのは嬉しいですが、お母さんのことを思うと泣けてきます。母チャンが、私をたのみと必死でそだててくれたことを思うと、何も喜ばせることができずに、安心させることもできずに死んでいくのがつらいです。……
母チャンが私にこうせよと言われたことに反対して、ここまで来てしまいました。私としては希望どおりで嬉しいと思いたいのですが、母チャンのいわれるようにした方がよかったなあと思います。
でも私は、技倆抜群として選ばれるのですから、よろこんで下さい。……
私は、お母さんに祈ってつっこみます。……
もうすぐ死ぬということが、何だか人ごとのように感じられます。いつでもまた、お母さんにあえる気がするのです。逢えないなんて考えると、ほんとに悲しいですから。」(『あゝ同期の桜』)
死んでいった学徒兵の切々たる手紙は、人の心をとらえるが、息子や夫を戦場へ送り出した家族の気持も、これに勝るとも劣らない。
慶應義塾大学塾長小泉信三は開戦直後、一人息子信吉の出征にあたって手紙を書いた。
「吾々両親は、完全に君に満足し、君をわが子とすることを何よりの誇りとしている。……吾々夫婦は、今日までの二十四年の間に、凡(およ)そ人の親として享(う)け得る限りの幸福は既に享けた。親に対し、妹に対し、なお仕残したことがあると思ってはならぬ。……
お祖父様の孫らしく、又吾々夫婦の息子らしく、戦うことを期待する。」
(『海軍主計大尉小泉信吉』)
これは人の親としての情を、まれにみる剛毅さで表現しているが、
岩手の農村の文字を知らない母親たちは、応召した息子たちの足に豆が出来ないようにとの親心から、川原の石ころをひろってきては、神さまにあげて拝んだり、フトコロにだいて寝ながら、「石ころに語りつづけた。」
(『石ころに語る母たち』)
小泉信吉も、岩手の息子たちも、帰ってこなかった・・・
http://www.japanpen.or.jp/e-bungeikan/guest/sovereignty/hayashishigeru.html
そのうえ、十八年五月の国民勤労報国協力令改正で、「学徒勤労報国隊」として、男子は農村や工場の勤労奉仕、女子は幼稚園・託児所・保育所への協力にかりだされ、十九年春以後は、全面的に軍需工場や強制疎開工事へ動員されて、勉学を放棄させられた。
これらの若き学徒は各職場でよく働き、学力低下に悩みながら、大事な青春時代にさまざまな経験を積んでいった。
学徒動員
学生の兵役徴集延期打切りが決まった文科系大学生は、十八年十月、小雨降る明治神宮競技場での出陣学徒壮行会を皮切りに、ぞくぞくと出征していった。
かれらは「人生二十五年」というあきらめと決意とを抱いていた。出陣学徒の中には、予備学生としてわずか十七時間の速成飛行訓練で、特攻隊員として沖縄その他の空に散った者が少なくない。
昭和二十年四月十二日、第一四期海軍予備学生で、神風特攻隊第二七生(しちしょう)隊員として沖縄に出撃、戦死した林市造海軍少尉(京大経済学部出身)は、元山(げんざん)航空隊からつぎのような便りを送った。
「お母さん、とうとう悲しい便りを出さねばならないときがきました。
親思ふ心にまさる親心 今日のおとづれ何ときくらむ
この歌がしみじみと思われます。……
晴れて特攻隊員と選ばれて出陣するのは嬉しいですが、お母さんのことを思うと泣けてきます。母チャンが、私をたのみと必死でそだててくれたことを思うと、何も喜ばせることができずに、安心させることもできずに死んでいくのがつらいです。……
母チャンが私にこうせよと言われたことに反対して、ここまで来てしまいました。私としては希望どおりで嬉しいと思いたいのですが、母チャンのいわれるようにした方がよかったなあと思います。
でも私は、技倆抜群として選ばれるのですから、よろこんで下さい。……
私は、お母さんに祈ってつっこみます。……
もうすぐ死ぬということが、何だか人ごとのように感じられます。いつでもまた、お母さんにあえる気がするのです。逢えないなんて考えると、ほんとに悲しいですから。」(『あゝ同期の桜』)
死んでいった学徒兵の切々たる手紙は、人の心をとらえるが、息子や夫を戦場へ送り出した家族の気持も、これに勝るとも劣らない。
慶應義塾大学塾長小泉信三は開戦直後、一人息子信吉の出征にあたって手紙を書いた。
「吾々両親は、完全に君に満足し、君をわが子とすることを何よりの誇りとしている。……吾々夫婦は、今日までの二十四年の間に、凡(およ)そ人の親として享(う)け得る限りの幸福は既に享けた。親に対し、妹に対し、なお仕残したことがあると思ってはならぬ。……
お祖父様の孫らしく、又吾々夫婦の息子らしく、戦うことを期待する。」
(『海軍主計大尉小泉信吉』)
これは人の親としての情を、まれにみる剛毅さで表現しているが、
岩手の農村の文字を知らない母親たちは、応召した息子たちの足に豆が出来ないようにとの親心から、川原の石ころをひろってきては、神さまにあげて拝んだり、フトコロにだいて寝ながら、「石ころに語りつづけた。」
(『石ころに語る母たち』)
小泉信吉も、岩手の息子たちも、帰ってこなかった・・・
http://www.japanpen.or.jp/e-bungeikan/guest/sovereignty/hayashishigeru.html
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