太平洋戦争 総力戦と国民生活・・・林 茂
投稿者: dorawasabi5001 投稿日時: 2006/11/13 23:03 投稿番号: [15096 / 17759]
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★教育の統制
・・
明治いらい「日本一の山」と教えられてきた富士山は、「たふとい お山 神の山 世界の人があふぎ見る」に変えられ、神話による国史が強調された。
修身教科書は、「国体の精華」を明らかにし「国民精神」を養い「皇国の使命」を自覚させるため、「キゲン節」「天皇陛下」「メイヂセツ」などについで、つぎのように、素朴な祖国意識に訴える文章をかかげた。
日本ハ春夏秋冬ノナガメノ美シイ国デス
山ヤ川ヤ海ノキレイナ国デス
コノヨイ国ニ私タチハ生マレマシタ
オトウサンモ オカアサンモ コノ国ニオ生マレニナリマシタ
オヂイサンモ オバアサンモ コノ国ニオ生マレニナリマシタ
日本ヨイ国 キヨイ国
世界ニ一ツノ神ノ国
日本ヨイ国 強イ国
世界ニカガヤクエライ国
修身教材は高学年になるにつれてイデオロギー的となる。
たとえば、世界の興亡史に目を向けさせながら、「昔から今まで続いて、今から先も、またかぎりなく続いて行く国は、世界にただ一つ、わが大日本があるだけであります」といい、
太平洋戦争によって、日本の肇国(ちょうこく)同様に、「太平洋や南の海には、すでに新しい日本の国生みが行はれました。……のちの世の人々が、昭和の御代の御光(みひか)りを仰ぎ見る日が参ります」と、戦争が歴史的に賛美された。
そして、現実の戦争へ積極的に協力するように、すべての道徳を「忠君愛国」の「臣民の道」一つに、強引にゆがめた教化指導が行なわれた。
この結果、小学生にも軍人志望がふえ、陸士・海兵をはじめ、飛行服に絹の白いマフラーをまいた予科練(よかれん)へのあこがれが強まった。
しかし、教科書は資材難から、十九年以後紙質の低下、減ページとなり、しかもそれさえ満足には配給されなかった。
縁故疎開(えんこそかい)を行なえなかった東京はじめ大都市の学童は、十九年春から集団で田舎に疎開し、空腹とシラミやノミに悩まされた。
その学童疎開の状況は、さまざまな経験談に基づいてつぎのように物語詩にうたわれている。
その頃は、もうお茶の葉もなくなっていて、
白湯(さゆ)の渋い味をごくりと飲みおろしては、
遠くはなれた両親のことを毎日のようになつかしんでいた。
なんと云っても、寝るときが一番つらかった。
毛布の、いや、ふとんの、いや、人間の愛の、
あの肌ざわりのあたたかさというものが、
十歳になるかならない年ごろのぼくらから、
むごたらしいまでに奪われたということが、
そうだ、そのことが何よりも、
そのごのぼくらにとって一番大事なことなのだ。……
ミツコ、毎夜おまえはハンケチがないので、
両手をピチャピチャと涙でぬらしていたし、
ケンジ、毎朝きみは男のくせにすすり泣きを、
しゃっくりの真似してもかくせなかった。
云わば、ぼくらの世代は、
両親の愛をも許されぬ状態で、
かけがえのない幼年期を、みんな
おくらされてしまったのだ。
(『「木島始詩集』「星芒よ瞬(またた)け」より)
疎開しなかった学校では、防空訓練・勤労奉仕に明け暮れ、空襲罹災したばあいなどは、青空教室での三部授業が精いっぱいで、学校教育の崩壊は進んでいた。
★教育の統制
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明治いらい「日本一の山」と教えられてきた富士山は、「たふとい お山 神の山 世界の人があふぎ見る」に変えられ、神話による国史が強調された。
修身教科書は、「国体の精華」を明らかにし「国民精神」を養い「皇国の使命」を自覚させるため、「キゲン節」「天皇陛下」「メイヂセツ」などについで、つぎのように、素朴な祖国意識に訴える文章をかかげた。
日本ハ春夏秋冬ノナガメノ美シイ国デス
山ヤ川ヤ海ノキレイナ国デス
コノヨイ国ニ私タチハ生マレマシタ
オトウサンモ オカアサンモ コノ国ニオ生マレニナリマシタ
オヂイサンモ オバアサンモ コノ国ニオ生マレニナリマシタ
日本ヨイ国 キヨイ国
世界ニ一ツノ神ノ国
日本ヨイ国 強イ国
世界ニカガヤクエライ国
修身教材は高学年になるにつれてイデオロギー的となる。
たとえば、世界の興亡史に目を向けさせながら、「昔から今まで続いて、今から先も、またかぎりなく続いて行く国は、世界にただ一つ、わが大日本があるだけであります」といい、
太平洋戦争によって、日本の肇国(ちょうこく)同様に、「太平洋や南の海には、すでに新しい日本の国生みが行はれました。……のちの世の人々が、昭和の御代の御光(みひか)りを仰ぎ見る日が参ります」と、戦争が歴史的に賛美された。
そして、現実の戦争へ積極的に協力するように、すべての道徳を「忠君愛国」の「臣民の道」一つに、強引にゆがめた教化指導が行なわれた。
この結果、小学生にも軍人志望がふえ、陸士・海兵をはじめ、飛行服に絹の白いマフラーをまいた予科練(よかれん)へのあこがれが強まった。
しかし、教科書は資材難から、十九年以後紙質の低下、減ページとなり、しかもそれさえ満足には配給されなかった。
縁故疎開(えんこそかい)を行なえなかった東京はじめ大都市の学童は、十九年春から集団で田舎に疎開し、空腹とシラミやノミに悩まされた。
その学童疎開の状況は、さまざまな経験談に基づいてつぎのように物語詩にうたわれている。
その頃は、もうお茶の葉もなくなっていて、
白湯(さゆ)の渋い味をごくりと飲みおろしては、
遠くはなれた両親のことを毎日のようになつかしんでいた。
なんと云っても、寝るときが一番つらかった。
毛布の、いや、ふとんの、いや、人間の愛の、
あの肌ざわりのあたたかさというものが、
十歳になるかならない年ごろのぼくらから、
むごたらしいまでに奪われたということが、
そうだ、そのことが何よりも、
そのごのぼくらにとって一番大事なことなのだ。……
ミツコ、毎夜おまえはハンケチがないので、
両手をピチャピチャと涙でぬらしていたし、
ケンジ、毎朝きみは男のくせにすすり泣きを、
しゃっくりの真似してもかくせなかった。
云わば、ぼくらの世代は、
両親の愛をも許されぬ状態で、
かけがえのない幼年期を、みんな
おくらされてしまったのだ。
(『「木島始詩集』「星芒よ瞬(またた)け」より)
疎開しなかった学校では、防空訓練・勤労奉仕に明け暮れ、空襲罹災したばあいなどは、青空教室での三部授業が精いっぱいで、学校教育の崩壊は進んでいた。
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