無差別戦争観より劣悪な国連の平和維持機能
投稿者: stefanie_nadeshiko 投稿日時: 2005/07/03 21:03 投稿番号: [10926 / 17759]
多くの日本人は、国連憲章第2条第4項が武力の行使を一般的に禁止していること、そして国連には地球上の主権国家のほとんどすべてが加盟していることから、国際社会における武力行使の禁止原則は普遍的概念になっていると考えているようです。
確かに第二次世界大戦前と比較すれば、思想としての戦争違法化の流れは大きく進化しており、国際紛争の非軍事的手段による解決が多くの加盟国にとって、共通の利益として認識されつつあることを否定するものではありません。
けれども国連の存在によって、武力紛争が効果的に抑制されているという実感を持つ人はまずいないでしょう。
例えば、1999年のNATO軍によるユーゴ空爆は国連安保理事会のオーソライズを得ることなく行なわれましたし、2003年のイラク戦争も同様でした。
うち、後者については武力攻撃そのものに実質的正当性があったか否かという点で、今も国際世論上の見解は分かれていますが、前者についてはコソヴォ紛争下における大規模な人権侵害を排除するという大義名分が存在したこともあり、「国際法上は違法だが、道義上は正当」との見解が多くの法学者によって支持されました。
このように、この2つの戦争は国際社会の評価には若干の相違が見られるとしても、いずれも国連憲章に違反した戦争であった点、つまり国連安全保障理事会が当事国の武力行使の規制について有効に機能しえなかったという点については共通した事案であったわけです。
一方、第一次大戦後から登場した常設の国際司法裁判所についても、これらが個別の武力行使の合法性もしくは違法性について直接判断した事例はほとんどなく、依然として「戦争は法の外」という無差別戦争観の時代の国際法観念が強く支配しているという印象を受けます。
確かに国連憲章には、1928年の「不戦条約」の致命的欠陥であった強制執行機能(集団的安全保障体制に基づく国連軍の国際警察活動)が形の上では具備されました。
けれどもこの機能は国内法における司法手続きのように、既存の法的要件に従って、平等かつ事務的に発動されるものではありません。
ある武力行使が国連憲章で定める「平和に対する脅威」に該当するか否かの判断、そしてそれに対する強制執行機能の発動の可否の判断は、いずれも5大国が拒否権を持つ安保理事会において、国際法理論ではなく高度に政治的なレヴェルの力関係で判断される問題となっているのです。
例えば中国が我国の領土を武力で侵攻してきたと仮定して、我国がそれを安保理に委ねて国連軍の派兵による事態の収拾を要請したとしても、中国が拒否権を行使すれば国連は動くことが出来ず、我国はあくまでも自衛権の行使という形で中国軍に応戦するか、(ユーゴのケースと同様)安保理事会の授権を得ないまま組織された有志の多国籍軍(?)の援助に期待するしかないのです。
このように安全保障理事会を核とした国連の安保体制は、憲章の武力行使原則を無条件で支えるものでは決してない、いやむしろ全加盟国数との数の上での対比でいえば、圧倒的なマイノリティであるわずか5か国の恣意が、圧倒的なパワーをもってまかり通るようという、中世以前の超古代的意思決定システムであるということです。
そして19世紀の無差別戦争観が少なくとも両当事国同士が国際的立場において対当である事を前提としていたことを考えれば、それよりも遥かに劣悪で、危険な体制であるとさえ考えることが出来ます。
(以下次回)
確かに第二次世界大戦前と比較すれば、思想としての戦争違法化の流れは大きく進化しており、国際紛争の非軍事的手段による解決が多くの加盟国にとって、共通の利益として認識されつつあることを否定するものではありません。
けれども国連の存在によって、武力紛争が効果的に抑制されているという実感を持つ人はまずいないでしょう。
例えば、1999年のNATO軍によるユーゴ空爆は国連安保理事会のオーソライズを得ることなく行なわれましたし、2003年のイラク戦争も同様でした。
うち、後者については武力攻撃そのものに実質的正当性があったか否かという点で、今も国際世論上の見解は分かれていますが、前者についてはコソヴォ紛争下における大規模な人権侵害を排除するという大義名分が存在したこともあり、「国際法上は違法だが、道義上は正当」との見解が多くの法学者によって支持されました。
このように、この2つの戦争は国際社会の評価には若干の相違が見られるとしても、いずれも国連憲章に違反した戦争であった点、つまり国連安全保障理事会が当事国の武力行使の規制について有効に機能しえなかったという点については共通した事案であったわけです。
一方、第一次大戦後から登場した常設の国際司法裁判所についても、これらが個別の武力行使の合法性もしくは違法性について直接判断した事例はほとんどなく、依然として「戦争は法の外」という無差別戦争観の時代の国際法観念が強く支配しているという印象を受けます。
確かに国連憲章には、1928年の「不戦条約」の致命的欠陥であった強制執行機能(集団的安全保障体制に基づく国連軍の国際警察活動)が形の上では具備されました。
けれどもこの機能は国内法における司法手続きのように、既存の法的要件に従って、平等かつ事務的に発動されるものではありません。
ある武力行使が国連憲章で定める「平和に対する脅威」に該当するか否かの判断、そしてそれに対する強制執行機能の発動の可否の判断は、いずれも5大国が拒否権を持つ安保理事会において、国際法理論ではなく高度に政治的なレヴェルの力関係で判断される問題となっているのです。
例えば中国が我国の領土を武力で侵攻してきたと仮定して、我国がそれを安保理に委ねて国連軍の派兵による事態の収拾を要請したとしても、中国が拒否権を行使すれば国連は動くことが出来ず、我国はあくまでも自衛権の行使という形で中国軍に応戦するか、(ユーゴのケースと同様)安保理事会の授権を得ないまま組織された有志の多国籍軍(?)の援助に期待するしかないのです。
このように安全保障理事会を核とした国連の安保体制は、憲章の武力行使原則を無条件で支えるものでは決してない、いやむしろ全加盟国数との数の上での対比でいえば、圧倒的なマイノリティであるわずか5か国の恣意が、圧倒的なパワーをもってまかり通るようという、中世以前の超古代的意思決定システムであるということです。
そして19世紀の無差別戦争観が少なくとも両当事国同士が国際的立場において対当である事を前提としていたことを考えれば、それよりも遥かに劣悪で、危険な体制であるとさえ考えることが出来ます。
(以下次回)
これは メッセージ 10886 (stefanie_nadeshiko さん)への返信です.
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