東学党の乱(日本側からの見方)1
投稿者: akanbei_21c 投稿日時: 2003/12/26 16:35 投稿番号: [1372 / 9338]
岡崎久彦
「百年の遺産-日本近代外交史(13)」
【朝鮮出兵から日清開戦】
日本の素早い対応に驚き
(産経新聞2002年4月16日掲載)
日清戦争を理解するための本として、陸奥宗光の『蹇蹇録(けんけんろく)』以上のものはありません。 その冷静、犀利(さいり)な判断力と文章力からいって、チャーチル、ドゴール、キッシンジャーの回顧録にも優ると言って過言でないでしょう。何よりも『蹇蹇録』が史書として価値があるのは、偽悪的なまでに赤裸々に当時のパワーポリティックスの裏表を解説してあますところがないことです。
日清戦争は、開戦の時に明治天皇は「閣臣らの戦争にして朕(ちん)の戦争にあらず」と反対の意向を表明された戦争でありました。また清国側は、いったんは出兵を決定した後、日本の早い動きをみて「しまった」とほぞを噛(か)んで、列強の干渉を頼んでも避けようとした戦争でした。
これを巧みに戦争に持ち込んだのは陸奥と川上操六でした。そういうと戦後の歴史観では戦争を始めた陸奥は悪い、ということになりましょう。しかし、歴史に善悪是非の観念を持ち込むと歴史の真実が見えなくなります。
陸奥や川上にとっては、一歩踏みはずせば奈落の淵に落ちる弱肉強食の帝国主義時代に、いかに日本の存立を守り、国権を伸長するか以外は念頭にはなかったでしょう。
かりに、もし日本が、日清戦争の勝利とその勝利の賠償金による軍備の増強がなく、十年後のロシアの極東進出を迎えていたとしたら、清国も朝鮮もロシアの侵略を防ぐ実力のなかった極東で、日本がアジア人種最後の独立を守り通せたかどうかさえ危うい状況でした。力で自分を守り、自分の外辺をも守る、そうしなければ滅びる、これが帝国主義時代の掟(おきて)でした。
今、日本人が享有している高い生活水準は、途中で敗戦はあったものの、明治の近代化の遺産です。日清戦争に敗れた清国と、勝った日本のそれぞれのその後の運命を考えると、それだけでも日清戦争を勝ち抜いたわれわれの父祖に感謝すべきことは多々あります。
朝鮮では、一種の排外主義民衆運動である東学党の乱が起きました。明治二十六年の段階で清国はいち早く軍艦「来遠」「靖遠」を派遣して宗主国の威を示します。二十七年になって南部の反乱が拡大すると、清国政府は、朝鮮政府内の親清派と呼応して陸軍を出兵します。
これに対して、日本は、甲申事変では、清国側の兵力が圧倒的に優勢だったために親日派を見殺しにした失敗を繰り返すまいとして、三千名の清兵の倍以上の兵力を手早く朝鮮に送り込みます。
ところが、東学党の乱は間もなく収まり、日本側の素早い動きに驚いた清国は相互撤兵を提案するので日本は進退に窮します。そこで伊藤と陸奥は、清国と共同で朝鮮の内政改革をすることを提案し、そして陸奥は、さらに清国がこの提案に同意しない場合は、日本が独力で改革を行う方針を閣議で確認させます。
内政改革は、それがない限り朝鮮では、壬午、甲申、東学党の乱と、何度でも問題が絶えないではないかという説明が可能でした。
また、日本に亡命中だった親日独立党の金玉均が上海に誘(おび)き出されて殺害され、その遺体は、首と胴は京城と仁川、四肢は八道に分けて路傍に捨てて野良犬の食うにまかせるという六所の刑に処せられたという衝撃的な事件に日本の世論が激昂している最中でもありました。
いずれにしても、帝国主義時代に、文明国が弱小国の内政に干渉するのは珍しくなく、日本の場合は明治維新の経験を朝鮮に教えてやるという正義感もありました。
「百年の遺産-日本近代外交史(13)」
【朝鮮出兵から日清開戦】
日本の素早い対応に驚き
(産経新聞2002年4月16日掲載)
日清戦争を理解するための本として、陸奥宗光の『蹇蹇録(けんけんろく)』以上のものはありません。 その冷静、犀利(さいり)な判断力と文章力からいって、チャーチル、ドゴール、キッシンジャーの回顧録にも優ると言って過言でないでしょう。何よりも『蹇蹇録』が史書として価値があるのは、偽悪的なまでに赤裸々に当時のパワーポリティックスの裏表を解説してあますところがないことです。
日清戦争は、開戦の時に明治天皇は「閣臣らの戦争にして朕(ちん)の戦争にあらず」と反対の意向を表明された戦争でありました。また清国側は、いったんは出兵を決定した後、日本の早い動きをみて「しまった」とほぞを噛(か)んで、列強の干渉を頼んでも避けようとした戦争でした。
これを巧みに戦争に持ち込んだのは陸奥と川上操六でした。そういうと戦後の歴史観では戦争を始めた陸奥は悪い、ということになりましょう。しかし、歴史に善悪是非の観念を持ち込むと歴史の真実が見えなくなります。
陸奥や川上にとっては、一歩踏みはずせば奈落の淵に落ちる弱肉強食の帝国主義時代に、いかに日本の存立を守り、国権を伸長するか以外は念頭にはなかったでしょう。
かりに、もし日本が、日清戦争の勝利とその勝利の賠償金による軍備の増強がなく、十年後のロシアの極東進出を迎えていたとしたら、清国も朝鮮もロシアの侵略を防ぐ実力のなかった極東で、日本がアジア人種最後の独立を守り通せたかどうかさえ危うい状況でした。力で自分を守り、自分の外辺をも守る、そうしなければ滅びる、これが帝国主義時代の掟(おきて)でした。
今、日本人が享有している高い生活水準は、途中で敗戦はあったものの、明治の近代化の遺産です。日清戦争に敗れた清国と、勝った日本のそれぞれのその後の運命を考えると、それだけでも日清戦争を勝ち抜いたわれわれの父祖に感謝すべきことは多々あります。
朝鮮では、一種の排外主義民衆運動である東学党の乱が起きました。明治二十六年の段階で清国はいち早く軍艦「来遠」「靖遠」を派遣して宗主国の威を示します。二十七年になって南部の反乱が拡大すると、清国政府は、朝鮮政府内の親清派と呼応して陸軍を出兵します。
これに対して、日本は、甲申事変では、清国側の兵力が圧倒的に優勢だったために親日派を見殺しにした失敗を繰り返すまいとして、三千名の清兵の倍以上の兵力を手早く朝鮮に送り込みます。
ところが、東学党の乱は間もなく収まり、日本側の素早い動きに驚いた清国は相互撤兵を提案するので日本は進退に窮します。そこで伊藤と陸奥は、清国と共同で朝鮮の内政改革をすることを提案し、そして陸奥は、さらに清国がこの提案に同意しない場合は、日本が独力で改革を行う方針を閣議で確認させます。
内政改革は、それがない限り朝鮮では、壬午、甲申、東学党の乱と、何度でも問題が絶えないではないかという説明が可能でした。
また、日本に亡命中だった親日独立党の金玉均が上海に誘(おび)き出されて殺害され、その遺体は、首と胴は京城と仁川、四肢は八道に分けて路傍に捨てて野良犬の食うにまかせるという六所の刑に処せられたという衝撃的な事件に日本の世論が激昂している最中でもありました。
いずれにしても、帝国主義時代に、文明国が弱小国の内政に干渉するのは珍しくなく、日本の場合は明治維新の経験を朝鮮に教えてやるという正義感もありました。
これは メッセージ 1 (kaikakumon さん)への返信です.