外国人が見た日本人

Yahoo! Japan 掲示板トピックビューアー

[ << 最初のページ | < 前のページ | メッセージリスト | 掲示板表示 | [ メッセージ # ] | 次のページ > | 最後のページ >> ]

徳川慶喜

投稿者: hendazo04 投稿日時: 2009/11/21 08:51 投稿番号: [155 / 178]
「訪問客の中でも最も著名な人物は前将軍徳川公爵であった。(中略)
彼が失脚する寸前、三十歳の時の彼を覚えているが、徳川公爵は私が今まで会った人物の中でも際立って上品な風貌を備えた人であった。しかも、それだけではなかった。彼はきわめて人好きのする優雅な態度と魅力的な物腰を備えていた。背は高くなかったが、非常に均整がとれていた。顔立ちは彫が深く、口も歯も非の打ちどころがなかった。顔色は明るいオリーブ色で、その手も脚も彫刻家のモデルにしたいほど優美であった。彼がほほえむと、顔全体が明るくなった。年をとった現在でも、彼の立派な外見はほとんど変わらず、その魅力はすべてそのまま残っていた。

我々が初めて謁見した日のことを、昨日のことのように良く覚えている。それは堂々とした建築物である大阪城で行われた。ハリー・バークス公使とサトウ氏と私は迷路のような廊下を通って、美しい装飾を施した大きな畳敷きの部屋に案内された。テーブルを囲んで椅子が並べられてあり、そこに将軍の顧問官である御老中と我々が座ったが、一つだけ席が空いていた。突然、貴人の入場を告げる合図の息を吸う音が建物や廊下で聞こえた。だんだんにその音が近くなり、ついに襖が両側に開かれると、そこにはほんの一,二秒の間であったが、威厳のある姿がじっと動かずに彫刻のように立っていた。

我々が立ち上がって礼をすると、将軍は微笑して優雅に礼を返し、我々に座るよう手まねで合図して空いていた席に座った。
流血無しでは済まされなかったさまざまな策謀を経て、この偉大なる帝国の支配者となり、事実上の国王であった彼は、一転して反逆者として取扱われ、後になって許されて再び天皇のご愛顧を賜るようになったのである。徳川公爵ほど栄枯盛衰の波乱に満ちた人生を経験した人は他にまずいないであろう。
数日後、アーサー殿下の昼食会に招かれた彼と再び会ったので、その時かなり長い話をした。私の名前が変わったので(筆者ミットフォードは男爵となり、この時リースディル卿を名乗っていた)最初、私が誰だか分からなかったようでであったが、説明すると私のことを思い出して、極めて打ち解けた態度で話を始めた。『あなたと大阪で会った時から思うと、世の中はずいぶん変わりましたね』というのが彼の最初の言葉であった。本当に大きく変わったものだ。
最後に彼を見たときの事を覚えている。それは伏見の戦いの後で、戦いに敗れた将軍が、大阪に馬に乗って戻ってくるところであった。彼は護衛の武士たちに囲まれて、冑をかぶり、面頬をつけ、日本の古式豊かな鎧を着て、軍勢の先頭に立っていた。
それは決して忘れることのできない絵のような光景であったが、その日は歴史の上で運命の分かれ道になった日であったのである。

彼が帰るとき、私は玄関まで送っていった。馬車が待っていたが、彼は供の者も連れずただ一人それに乗って帰っていった。昔はあらゆるものがひざまずいてお辞儀をする中を、槍持ちや弓手や大勢の家来たちを従えて威風堂々と華やかな行列を進めるのが常であったのに、いまやただ一人の供も連れていない。しかし、彼は今でも偉大な人物である。将軍職は廃止されたが、徳川家の最長老である彼は現在でも重要な貴族である。あの波乱に満ちた時代に、彼自身でさえも時代遅れで、見せかけだけで、とても支えきれないと思っていた栄光ある地位についていた頃に較べれば、現在の落ち着いた老いの日々は、より幸せではあるまいか」

アルジャーノン・バートラム・フリーマン・ミットフォード
『ミットフォード日本日記―英国貴族の見た明治』講談社学術文庫2001
イギリスの外交官・著述家。英国公使館として1866(慶応二)年に来日。六年余り幕府と明治新政府との外交折衝に奔走した。
1906年、英国国王から明治天皇にガーター勲章を捧呈する使節団の主席随員として再来日。
[ << 最初のページ | < 前のページ | メッセージリスト | 掲示板表示 | [ メッセージ # ] | 次のページ > | 最後のページ >> ]

Yahoo! Japan 掲示板 アーカイヴ

[検索ページ] (中東) (東亜) (捕鯨 / 捕鯨詳細)