何故、嫌いな日本人に成り済ますのか?

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真田幸村

投稿者: rie2377 投稿日時: 2011/09/23 06:33 投稿番号: [6059 / 6355]
今回は久し振りに戦国物を、日本人が一番
好きな武将   (多分)笑

長いそうで二回に分けて

         真田幸村

慶長五年、天下の情勢は俄かには緊迫し石田三成と
徳川家康の衝突は避けられない状況となった

大名諸将、何れに付くか   御家の存亡を賭けて
瀬戸際の選択を迫られていた

信州真田家も例外ではなかった、当主真田昌幸は
西軍を主張する

徳川勢とは先年より因縁あり
これに組するは我が意にあらず

西方(がた)にて御家の安泰を計るべし

真田と徳川は、これまで幾度と無く小競り合いを
繰り返しており   昌幸は徳川に組みするのを良しと
しなかった

対して嫡男信幸は、徳川に付くべく反論する

父上   天下の形勢は既に徳川に傾いておりまする
石田殿を持ってしても西方勝利は至難の業

何卒御再考を

話し合いは幾度となく繰り返された、しかし結論は
出ず、互いに信ずる道を進む事になったのである

昌幸と幸村は西軍に、信幸は東軍に、親兄弟敵味方に
分かれる事になった   尤もこの信幸の判断が結果的に
真田家を幕末まで存続させる事になった

(信州松代藩)

慶長五年九月、徳川軍は二手に分かれて進軍を
開始する、家康は東海道を秀忠は本隊三万八千を
率いて中山道を進んだ

中山道の秀忠を待ち受けていたのが、信州上田城の
真田親子であった

軍勢は僅か二千五百、秀忠軍の十分の一にも満たない
しかし自在の戦略は秀忠軍を翻弄し、一刻も争う
行軍は十日余りも足止めを余儀なくされた

この為秀忠は、肝心の関が原に間に合わず
後々家康から激しい叱責を受けた

万一西軍が勝利すれば第一の功労者は真田親子で
あった

その関が原はあっけない幕切れとなった
西軍は総崩れとなり三成は斬首、昌幸、幸村も
捕らえられ、紀州九度山に蟄居の身となった

九度山に預かりの身となってより十五年   幸村は
次第に老いていく己が疎ましかった

姉に宛てた書状で

我既に齢(よわい)四十七、歯は欠け
髪は白く弱き身となり申した

もやは朽ち果てるを待つばかり

武士の面目も叶わず、捕われ人で
九度山に屍   (しかばね)を晒すのみ

我が定めを嘆く幸村にある時一通の書状が届け
られた、豊臣秀頼からの勧誘状である

此度、関東勢と一戦交えるものなり
貴殿の御高名、天下に知らぬ者なし

大阪城に入城されたし、委細はその後(のち)

天は我を見放さなかった、幸村は心躍らせ勇躍
大阪城に向かって行った

その頃天下は風雲急を告げていた

家康は豊臣家が建立した方広寺の鐘に刻まれた
国家安康の文字が、家康を呪った物だとして
強硬な態度に出る

明らかにこれは口実であった、豊臣家の存在が
邪魔になった家康が豊臣家滅亡を決意したのである

もやはこれまで、淀君始め重臣達は諸国の大名に
参陣を呼びかける、しかし承諾する大名は誰一人と
していなかった

既に徳川政権は磐石となっており、これに背くのは
自殺行為に近かった、やむなく諸国に溢れる牢人に
声を掛けたのである
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