Re: 国民が知らない反日の実態
投稿者: kubotakaaki2005 投稿日時: 2008/11/25 09:57 投稿番号: [86055 / 95793]
敵は同調者を求めている
わが党の結成は、大した評価をうけなかったが、これはわれわれに有利であった。事実、わが党結成の重要性は、最初の参加者が限られていたという面からのみ評価された。このような単純な考え方は、われわれの目的に役立つものである。
われわれは、われわれの目的とする幾人かの知識人を仲間に引き入れることができた。その中の一人であるX教授は、国家的名声を持ち、われわれの活動が都合よく運ぶのに役立つ権威を持っている学者である。
全体として、この国の国民は、入国管理と福祉政策によって眠らされており、彼らの伝統的制度が、他のあらゆる形の体制に優越するものであることを確信しているので、われわれが恐れていたような反応は全くない。この日本ってくにのわれわれの組織は世界的にみれば安全で秩序があり国民所得も高く順調に活動している。
われわれは、新党の党首にJ氏を据えた。彼は頭脳明晰、かつ、活動家であるが、野心に取りつかれ、非常に金を欲しがっている。彼の属していた保守党は、彼に微かな希望しか与えなかったので、じっと控え室で自分の出番を待つ代わりに、彼はついに性急な道を選んだのだ。彼は、仲間からは決定的に排斥されてしまったので、今や、成功するためならどんなことでもするだろう。
それ故、われわれの活動は順調に進んでいる。
ゾルゲは、上海ではフランス租界のジョフル街に居を構えた。ここはロシア人街で白系ロシア人の経営する商店が軒を連ねていた。アメリカ人ジャーナリスト、スメドレー(ニューデイーラーだが中国共産党と親しかった。)の紹介で朝日新聞記者尾崎秀実と知りあう。これは外国人記者クラブでの出来事らしい。第1次上海事変に遭遇、日本軍の装備を通報。1932年ウラジオ経由でモスクワに帰る。ドイツに立ち寄りゲッペルスと面会したと言う。ゾルゲスパイ事件は非常に後味の悪いものがある。以上のようにゾルゲは共産党またはコミンテルンの政治運動関係ではなく軍事情報に限定されたスパイだった。当然ゾルゲはソ連市民として納得したのかもしれないが、一方でドイツにも有害ではない。
日独関係は1936年11月の防共協定成立までは友好的でなかった。なぜならば中国軍(国民)はドイツ国防軍の軍事顧問団により指導されていた。そして装備はソ連から賄われていたから、日本は独ソ双方の敵だった。ゾルゲは日本人を同じ人間とみなしておらず軽蔑していたようだ。ゾルゲは最後まで独ソだけによる国際主義共産運動のみが世界救済できるものと確信しており、それの賛辞が死の直前の言葉だった。最後まで内陸ヨーロッパ人だったのだろう。またゾルゲは大アジア主義の日本人から、「全ての日本人はアジアで最も優れている民族だと確信している。」と聞かされたらしく、不満を述べている。この状態で、共産主義運動に組織的に関与せず日本側に協力者が現れることは普通は難しい。金が目的な奴ならもっと良い。
尾崎秀実(1901−1944)東大卒。『朝日新聞』記者。
退社後近衛内閣嘱託。ゾルゲ事件により処刑された。細川隆元(『朝日新聞』政治部長)は「尾崎は朝日新聞ではぼくの2年下で入社し、ぼくら若い連中で読書会というのをやっておったんです。彼はどちらかというと左がかっておったが、日本を革命しようというマルキシズムの信念からゾルゲと接触したわけではない。彼がゾルゲと仲良くなったのは、上海でだろうが、女遊びの金が欲しかったためだ。……私はテレビで二度、彼は金欲しさにゾルゲとくっついたと言ったが、彼を尊敬している弟さんからも、何の抗議もない」と酷評した。
1933年再度日本に来航。この時尾崎は意図を知っていたかは別にして通報者となった。1935年モスクワに帰る。ベルジンと打合せ。1935年三度び来航。帝国ホテルに居を構え、その後麻布永坂町に下宿した。ゾルゲはドイツの雑誌にもよく寄稿しておりソ連からの手当ても加わり生活資金は潤沢だった。
わが党の結成は、大した評価をうけなかったが、これはわれわれに有利であった。事実、わが党結成の重要性は、最初の参加者が限られていたという面からのみ評価された。このような単純な考え方は、われわれの目的に役立つものである。
われわれは、われわれの目的とする幾人かの知識人を仲間に引き入れることができた。その中の一人であるX教授は、国家的名声を持ち、われわれの活動が都合よく運ぶのに役立つ権威を持っている学者である。
全体として、この国の国民は、入国管理と福祉政策によって眠らされており、彼らの伝統的制度が、他のあらゆる形の体制に優越するものであることを確信しているので、われわれが恐れていたような反応は全くない。この日本ってくにのわれわれの組織は世界的にみれば安全で秩序があり国民所得も高く順調に活動している。
われわれは、新党の党首にJ氏を据えた。彼は頭脳明晰、かつ、活動家であるが、野心に取りつかれ、非常に金を欲しがっている。彼の属していた保守党は、彼に微かな希望しか与えなかったので、じっと控え室で自分の出番を待つ代わりに、彼はついに性急な道を選んだのだ。彼は、仲間からは決定的に排斥されてしまったので、今や、成功するためならどんなことでもするだろう。
それ故、われわれの活動は順調に進んでいる。
ゾルゲは、上海ではフランス租界のジョフル街に居を構えた。ここはロシア人街で白系ロシア人の経営する商店が軒を連ねていた。アメリカ人ジャーナリスト、スメドレー(ニューデイーラーだが中国共産党と親しかった。)の紹介で朝日新聞記者尾崎秀実と知りあう。これは外国人記者クラブでの出来事らしい。第1次上海事変に遭遇、日本軍の装備を通報。1932年ウラジオ経由でモスクワに帰る。ドイツに立ち寄りゲッペルスと面会したと言う。ゾルゲスパイ事件は非常に後味の悪いものがある。以上のようにゾルゲは共産党またはコミンテルンの政治運動関係ではなく軍事情報に限定されたスパイだった。当然ゾルゲはソ連市民として納得したのかもしれないが、一方でドイツにも有害ではない。
日独関係は1936年11月の防共協定成立までは友好的でなかった。なぜならば中国軍(国民)はドイツ国防軍の軍事顧問団により指導されていた。そして装備はソ連から賄われていたから、日本は独ソ双方の敵だった。ゾルゲは日本人を同じ人間とみなしておらず軽蔑していたようだ。ゾルゲは最後まで独ソだけによる国際主義共産運動のみが世界救済できるものと確信しており、それの賛辞が死の直前の言葉だった。最後まで内陸ヨーロッパ人だったのだろう。またゾルゲは大アジア主義の日本人から、「全ての日本人はアジアで最も優れている民族だと確信している。」と聞かされたらしく、不満を述べている。この状態で、共産主義運動に組織的に関与せず日本側に協力者が現れることは普通は難しい。金が目的な奴ならもっと良い。
尾崎秀実(1901−1944)東大卒。『朝日新聞』記者。
退社後近衛内閣嘱託。ゾルゲ事件により処刑された。細川隆元(『朝日新聞』政治部長)は「尾崎は朝日新聞ではぼくの2年下で入社し、ぼくら若い連中で読書会というのをやっておったんです。彼はどちらかというと左がかっておったが、日本を革命しようというマルキシズムの信念からゾルゲと接触したわけではない。彼がゾルゲと仲良くなったのは、上海でだろうが、女遊びの金が欲しかったためだ。……私はテレビで二度、彼は金欲しさにゾルゲとくっついたと言ったが、彼を尊敬している弟さんからも、何の抗議もない」と酷評した。
1933年再度日本に来航。この時尾崎は意図を知っていたかは別にして通報者となった。1935年モスクワに帰る。ベルジンと打合せ。1935年三度び来航。帝国ホテルに居を構え、その後麻布永坂町に下宿した。ゾルゲはドイツの雑誌にもよく寄稿しておりソ連からの手当ても加わり生活資金は潤沢だった。
これは メッセージ 86022 (kubotakaaki2005 さん)への返信です.
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