イワッチさん
投稿者: minnnasugoi 投稿日時: 2006/02/28 20:57 投稿番号: [70225 / 95793]
以下の文章を使ってください。
○ここら辺のことを丘永漢さんが書いています。
『 ちょうど終戦の直後だった。大学を卒業した私は
引き揚げ船を逆に乗って生まれ故郷の台湾へ帰った。
当時の台湾にはまだ国民政府は遷都してきていなかったが、
蒋介石が任命した陳儀という行政官が手下の軍隊を連れて
乗り込んできた。
この軍隊が恐ろしく程度の悪い烏合の衆で、
天秤棒に七輪や鍋釜を担いで上陸してきたので、
日本軍の秩序正しい行動を見慣れてきた
台湾の人たちに大きなショックを与えた。
その上、法律は守らない、公金は横領する、日本人の
残していった財産は片っ端からポッポに入れてしまうし
議会で台湾の代表たちが非難すると、日本帝国主義
の害毒を受けたものが何を言うかと逆に食ってかかられた。』
『陳儀の悪性に耐えかねた台湾の人たちに、自治を
要求する声が高くなっていた。私が台湾に
帰った翌年の昭和22年2月28日に、暴動事件が勃発した。
ことの起こりは、日本人の残していった酒、煙草の専売制
のある台湾で、上海から密輸された煙草が公然と売られており
専売局の取締官がそれを取り締まりに出て、それを没収
しようしたところ、何事かと思って二階の窓から顔を出した
男を取締官が拳銃で撃ち殺したのである。
たまたま殺された男が台北の有力なヤクザの一員だったため
怒った組員たちが、専売局に抗議のデモをかけた。
そうしたらかねてから当局に不満を抱いていた民衆の
鬱積していた怒りに火がつき、デモは長い行列になり
行政官のいる建物の前の広場を埋め尽くした。
この時、陳儀はうしろめたいところがあったと見え
建物の奥に隠れたまま、ベランダから威嚇射撃を
やらかした。怒り狂ったデモ隊は専売局を、焼き討ちし、
放送局を占領し、逃げ隠れする外省人を捕まえて殴る、
蹴るの制裁を加えた。
陳儀は自治を要求する人民代表に会って、色よい
対応をする一方で、南京にいる蒋介石のところへ
援軍の要請をした。
一週間して、澎孟絹が引き連れた精鋭が基隆に上陸し
形勢は一変して掃蕩戦が始まり、手向かうものは
一切、見境なく銃弾を浴びせられた。
そればかりでなく、事件を収拾するために組織された
2.28処理委員会のメンバーたちは、拘引されて
大半が行方不明になってしまった。その場で銃殺
されたものもあれば、死体に針金を通して重石をつけて
淡水河に投げ込まれた。
この時、殺された台湾人は5千人とも一万人とも
いわれ、これだけの犠牲者が出ると言うことは狭い
台湾で身内の誰かに必ず死者や、牢獄に入っている
者がいると言うことであり、この事件を契機として
本省人を呼ばれる台湾の人と、外省人と呼ばれる
戦後、大陸から渡ってきた人の間に深い溝ができ
この溝を埋めるのに以後、何十年という歳月を
必要とした。』
○ここら辺のことを丘永漢さんが書いています。
『 ちょうど終戦の直後だった。大学を卒業した私は
引き揚げ船を逆に乗って生まれ故郷の台湾へ帰った。
当時の台湾にはまだ国民政府は遷都してきていなかったが、
蒋介石が任命した陳儀という行政官が手下の軍隊を連れて
乗り込んできた。
この軍隊が恐ろしく程度の悪い烏合の衆で、
天秤棒に七輪や鍋釜を担いで上陸してきたので、
日本軍の秩序正しい行動を見慣れてきた
台湾の人たちに大きなショックを与えた。
その上、法律は守らない、公金は横領する、日本人の
残していった財産は片っ端からポッポに入れてしまうし
議会で台湾の代表たちが非難すると、日本帝国主義
の害毒を受けたものが何を言うかと逆に食ってかかられた。』
『陳儀の悪性に耐えかねた台湾の人たちに、自治を
要求する声が高くなっていた。私が台湾に
帰った翌年の昭和22年2月28日に、暴動事件が勃発した。
ことの起こりは、日本人の残していった酒、煙草の専売制
のある台湾で、上海から密輸された煙草が公然と売られており
専売局の取締官がそれを取り締まりに出て、それを没収
しようしたところ、何事かと思って二階の窓から顔を出した
男を取締官が拳銃で撃ち殺したのである。
たまたま殺された男が台北の有力なヤクザの一員だったため
怒った組員たちが、専売局に抗議のデモをかけた。
そうしたらかねてから当局に不満を抱いていた民衆の
鬱積していた怒りに火がつき、デモは長い行列になり
行政官のいる建物の前の広場を埋め尽くした。
この時、陳儀はうしろめたいところがあったと見え
建物の奥に隠れたまま、ベランダから威嚇射撃を
やらかした。怒り狂ったデモ隊は専売局を、焼き討ちし、
放送局を占領し、逃げ隠れする外省人を捕まえて殴る、
蹴るの制裁を加えた。
陳儀は自治を要求する人民代表に会って、色よい
対応をする一方で、南京にいる蒋介石のところへ
援軍の要請をした。
一週間して、澎孟絹が引き連れた精鋭が基隆に上陸し
形勢は一変して掃蕩戦が始まり、手向かうものは
一切、見境なく銃弾を浴びせられた。
そればかりでなく、事件を収拾するために組織された
2.28処理委員会のメンバーたちは、拘引されて
大半が行方不明になってしまった。その場で銃殺
されたものもあれば、死体に針金を通して重石をつけて
淡水河に投げ込まれた。
この時、殺された台湾人は5千人とも一万人とも
いわれ、これだけの犠牲者が出ると言うことは狭い
台湾で身内の誰かに必ず死者や、牢獄に入っている
者がいると言うことであり、この事件を契機として
本省人を呼ばれる台湾の人と、外省人と呼ばれる
戦後、大陸から渡ってきた人の間に深い溝ができ
この溝を埋めるのに以後、何十年という歳月を
必要とした。』
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