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Re: ルモイ少将に 付いて検索。

投稿者: kubotakaaki2005 投稿日時: 2006/02/25 13:52 投稿番号: [69958 / 95793]
カーチス・ルメイ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

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カーチス・エマーソン・ルメイ(Curtis Emerson LeMay, 1906年11月15日 - 1990年10月3日) は、第二次大戦期のアメリカ合衆国の軍人。
目次 [非表示]
・ 1 生い立ち
・ 2 第二次世界大戦
・ 3 無差別戦略爆撃の立案
・ 4 戦後

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生い立ち
カーチス・E・ルメイは1906年11月15日にオハイオ州コロンバス市で6人兄弟の長男として生まれた。父は職業を転々とする放浪者。母は教師。地元オハイオ州立大学に進み、在学中に陸軍予備士官課程を修了、卒業しないまま国境警備隊を経て陸軍に入隊した。幼少時代より飛行機乗りにあこがれ、1929年にパイロット資格を取得、その後爆撃飛行隊に所属。
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第二次世界大戦
第二次世界大戦開戦当初ルメイは無名の大尉であったが、その後(あだ名:鉄のロバ)中佐に昇進し英国に渡り、第8空軍の一員として、ドイツ爆撃を指示。1944年に少将となったのちその活躍は世界に名を轟かすこととなる。
インド・カラグプルに司令部を置く第20爆撃集団司令官として重慶からの八幡製鉄所爆撃に携わり、その後いくつかの爆撃を経て第21爆撃集団司令官としてグアムに移動。第21爆撃集団司令官の前任者ヘイウッド・ハンセルは、既に武蔵野の中島飛行機武蔵野工場などへの精密爆撃を敢行していたが、その効果が薄いと判断した航空隊司令官ヘンリー・アーノルド大将自らの指示により、ハンセルは更迭されルメイが後任としてグアムに着任した。
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無差別戦略爆撃の立案
ルメイは高高度からの精密爆撃をやめ、日本の都市、非武装地帯、非戦闘員の住む住宅を焼き払うことが日本の工場の生産を停止させ、日本そのものの戦意喪失になると考えた。 ルメイが考案した日本本土爆撃の主なポイントは次の4点である。
1. 高高度からの爆撃をやめ、低空(1,800メートル以下)からの爆撃
2. 爆弾は焼夷弾のみとし、最大積載とする
3. 搭載燃料を最小限とし、防御用銃座ははずす
4. 攻撃は夜間とする
これにより、東京大空襲をはじめ日本本土の空襲は大成功をおさめた。このほか、ルメイは   核兵器(原子爆弾)投下など次々と新戦術を編み出し、日本国民を震え上がらせ、鬼畜ルメイと渾名された。
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戦後
第二次大戦後、空軍中将となり、その後戦略空軍司令官、空軍参謀総長を歴任。
爆撃機開発の責任者としてヴァルキリー計画を指揮、当時の主力B-52爆撃機の後継機開発を指揮する(最終的に失敗し、現在もB-52は現役である)。キューバ危機勃発時、キューバ空爆をケネディ大統領に提案するが却下。ベトナム戦争で北爆を推進したのも彼である。
以上に見られるように、ルメイは無差別戦略爆撃に自らの軍人生命を賭していた感が強い。
一方、日本の航空自衛隊創設に際して戦術指導を行なった。1964年その功績により、皮肉にも、この東京大空襲の指揮官は日本政府より勲一等旭日大綬章を受ける事になる(源田実が推薦、社会党などは反対)。日本国内では叙勲に対する批判が根強い。(但し、自身のプロフィールでは受章に関して一切触れられていないという)
1965年2月に退役。1968年には、ジョージ・ウォレス大統領候補とともにアメリカ独立党(American Independent Party)の副大統領候補として出馬するが落選。1990年12月10日没。
1957年11月11日   KC-135による無給油連続飛行世界記録樹立を指揮し、年度優秀パイロットに贈られるハーモン・トロフィーを受賞している。
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