Re: 越中ふんどし ベトナムが勝った糞戦争
投稿者: kubotakaaki2005 投稿日時: 2006/02/06 02:55 投稿番号: [68373 / 95793]
>どうして、越中なんだろう???
中越戦争(ちゅうえつせんそう、Sino-Vietnamese War)は、中華人民共和国とベトナムの間で1979年に行われた戦争。
ベトナム戦争終結直前、ベトナムの隣国カンボジアでは1975年4月にロン・ノムの親米軍事政権が倒れ、1976年1月にポル・ポト率いるクメール・ルージュが政権を奪取し、「民主カンプチア」の成立を宣言したが、間も無く恐怖政治を行うようになった。また、ほぼ同時に成立した統一ベトナムとの間では対立が激化し、1978年1月に国境紛争によって国交を断絶した。ベトナムはカンボジアから亡命していたヘン・サムリンたちを支援するというかたちでカンボジアに侵攻し、1979年1月にプノンペンを攻略、ヘン・サムリンによる親ベトナム政権を樹立した。ポル・ポトは密林地帯に逃亡しポル・ポト政権は崩壊した。
この背景には当時の中ソ対立も絡んでおり、ベトナムにはソ連が、カンボジアには中国がそれぞれ後ろ盾となっていた。
そこで中国の訒小平は1979年2月17日、「懲罰行為」と称して雲南と広西から20万の陸上軍および300機の航空機を以ってベトナムに侵攻した。
しかし、この決定が中国では「對越自衛反撃戦」と呼ばれ、ソ連とベトナムの連合侵攻を恐れての行動でもあったため、中華思想として一蹴することができない。
中国軍は緒戦で中越国境付近の町ランソンを占領することに成功したが、実のところ米軍との長年に渡る戦闘で実戦経験を重ねていたベトナム軍は機動力を駆使し兵力を温存しつつ撤退していた。ベトナム軍が反撃を開始すると、旧式の装備で人海戦術に頼る中国軍は大損害を出した。装備も訓練も劣悪な民兵や省の兵士が主力として投入されたことが、損害を大きくした。
中国はベトナム領内の占領都市を徹底的に爆破したのち3月6日から兵力食料弾薬不足で撤退を始め、3月16日撤退を完了した。この戦争で、中国側は戦死5万以上で、戦傷12万の損害を出し、ベトナム側は第二級の軍で思ったより損害を少なく住民約1万が犠牲になった。二流のベトナム軍の反撃で大損害を受け侵攻が破綻したので、中国首脳部はこの戦争で人民解放軍の立ち遅れを痛感し、軍の近代化を推し進めるようになった。
ベトナムはヘン・サムリン体制を保護するため、その後もカンボジア駐留を続け、1989年9月にようやく撤収した。また、1980年6月には隣国ラオスとタイの国境紛争に介入してタイに侵攻するなど、影響力強化のための軍事介入を続けた。
戦争後
中越関係はその後も改善せず、1980年7月と1981年5月に国境で武力衝突を起こした。冷戦終結後はおおむね安定している一方、ベトナムは後に中国に対し「中越戦争の謝罪」を要請したが、
「もっと未来志向にならなくてはならない」と謝罪を拒否されている。
もっとも、中国では一般的に中越戦争を裏切り者(ベトナムは中国の支援のもとで対南ベトナム・アメリカの戦争を戦った)の侵攻と認識され、またベトナム難民が20年以来に渡って香港の深刻な社会問題となっていたため、中華圏でのベトナムのイメージは、中越戦争以降悪いままである。なお、懸案であった国境線は2000年代に入って決定した。風説
一説には、ベトナムはかつて漢の交州であった地域であり、中国の一部とみなされてきた。その後、五代十国の混乱に乗じて呉朝が建国されて独立した。そのため中国歴代王朝は度々その再併合を図ろうとしてきた。この戦争をその路線の延長上に位置づけようとする見方もある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E8%B6%8A%E6%88%A6%E4%BA%89
中越戦争(ちゅうえつせんそう、Sino-Vietnamese War)は、中華人民共和国とベトナムの間で1979年に行われた戦争。
ベトナム戦争終結直前、ベトナムの隣国カンボジアでは1975年4月にロン・ノムの親米軍事政権が倒れ、1976年1月にポル・ポト率いるクメール・ルージュが政権を奪取し、「民主カンプチア」の成立を宣言したが、間も無く恐怖政治を行うようになった。また、ほぼ同時に成立した統一ベトナムとの間では対立が激化し、1978年1月に国境紛争によって国交を断絶した。ベトナムはカンボジアから亡命していたヘン・サムリンたちを支援するというかたちでカンボジアに侵攻し、1979年1月にプノンペンを攻略、ヘン・サムリンによる親ベトナム政権を樹立した。ポル・ポトは密林地帯に逃亡しポル・ポト政権は崩壊した。
この背景には当時の中ソ対立も絡んでおり、ベトナムにはソ連が、カンボジアには中国がそれぞれ後ろ盾となっていた。
そこで中国の訒小平は1979年2月17日、「懲罰行為」と称して雲南と広西から20万の陸上軍および300機の航空機を以ってベトナムに侵攻した。
しかし、この決定が中国では「對越自衛反撃戦」と呼ばれ、ソ連とベトナムの連合侵攻を恐れての行動でもあったため、中華思想として一蹴することができない。
中国軍は緒戦で中越国境付近の町ランソンを占領することに成功したが、実のところ米軍との長年に渡る戦闘で実戦経験を重ねていたベトナム軍は機動力を駆使し兵力を温存しつつ撤退していた。ベトナム軍が反撃を開始すると、旧式の装備で人海戦術に頼る中国軍は大損害を出した。装備も訓練も劣悪な民兵や省の兵士が主力として投入されたことが、損害を大きくした。
中国はベトナム領内の占領都市を徹底的に爆破したのち3月6日から兵力食料弾薬不足で撤退を始め、3月16日撤退を完了した。この戦争で、中国側は戦死5万以上で、戦傷12万の損害を出し、ベトナム側は第二級の軍で思ったより損害を少なく住民約1万が犠牲になった。二流のベトナム軍の反撃で大損害を受け侵攻が破綻したので、中国首脳部はこの戦争で人民解放軍の立ち遅れを痛感し、軍の近代化を推し進めるようになった。
ベトナムはヘン・サムリン体制を保護するため、その後もカンボジア駐留を続け、1989年9月にようやく撤収した。また、1980年6月には隣国ラオスとタイの国境紛争に介入してタイに侵攻するなど、影響力強化のための軍事介入を続けた。
戦争後
中越関係はその後も改善せず、1980年7月と1981年5月に国境で武力衝突を起こした。冷戦終結後はおおむね安定している一方、ベトナムは後に中国に対し「中越戦争の謝罪」を要請したが、
「もっと未来志向にならなくてはならない」と謝罪を拒否されている。
もっとも、中国では一般的に中越戦争を裏切り者(ベトナムは中国の支援のもとで対南ベトナム・アメリカの戦争を戦った)の侵攻と認識され、またベトナム難民が20年以来に渡って香港の深刻な社会問題となっていたため、中華圏でのベトナムのイメージは、中越戦争以降悪いままである。なお、懸案であった国境線は2000年代に入って決定した。風説
一説には、ベトナムはかつて漢の交州であった地域であり、中国の一部とみなされてきた。その後、五代十国の混乱に乗じて呉朝が建国されて独立した。そのため中国歴代王朝は度々その再併合を図ろうとしてきた。この戦争をその路線の延長上に位置づけようとする見方もある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E8%B6%8A%E6%88%A6%E4%BA%89
これは メッセージ 68364 (iwacchi1960 さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/552022058/cf9qa4nhbfffca5ga5b_1/68373.html