日本はなぜ罪悪感を持たないか
投稿者: naaanda_ban 投稿日時: 2005/05/19 23:08 投稿番号: [36781 / 95793]
日本はなぜ罪悪感を持たないか
cri
5月9日にモスクワで行われた大祖国防衛戦争勝利60周年を記念するイベントでは、各国の指導者が、観閲台の下を通って、無名戦士の墓にゆっくりと向かう時、日本の小泉首相は急にスピードを出して列の先端に出て、アメリカのブッシュ大統領の肩を叩いたり、ジョークを言ったりして、まるで宴会でも行くようでした。一方、2人の後ろを歩いているドイツのシュレーダー首相は端正で厳粛な表情をしています。
いかなる場合で、数千万人の命を奪った第二次世界大戦に触れるたびに、ドイツのシュレーダー首相は罪悪感を感じています。しかし、同じ第二次世界大戦の枢軸国であった日本の指導者は、あっさりと言ったり、さもなければ、とっくに謝罪したと弁解したりしました。
小泉首相がモスクワの無名戦士の墓の前で現した気楽な姿勢は、日本は罪悪感がないと改めて世界に示しているようです。従って、小泉首相とその閣僚は8月にまた平然と靖国神社を参拝し、しかも、その表情は小泉首相がモスクワにいた時のような気楽さはなく、端正で厳粛になることが予想できます。なぜなら、それは日本自国の亡霊を参拝するからです。
日本はなぜ、真摯に謝罪しようとしないのでしょう。それには様々な解説があります。例えば、日本の軍隊は、他人の命を虫のように扱っているといえば、一部の人類学の学者は、それは日本人が死に対する観念が異なるからで、彼らは自らに対してもこのように残酷だといいます。しかし、自らに刀を突き刺すことが好きだということは、他人に対しても刀を突き刺すことの理由になるのでしょうか。また、日本人が謝罪しようとしないのは、自尊心が強すぎるからだという人もいますが、女性を強姦した人は、自尊心のため強姦をぜんぜん認めないでもいいのでしょうか。
謝罪を要求するには、相手が罪悪感を持つことが前提です。本人が罪の意識がないと、謝罪の要求をうるさいと思うでしょう。歴史の反省を呼びかける声が高まるに対し、日本は漠然としているその深い原因は、自らの罪悪を一切感じていないことにあります。この結論は多くのことによって立証されています。例えば、日本のある歴史学者は1998年、ハーバード大学で「幻の南京大虐殺」をテーマに講演しました。また、日本の一部の歴史教科書は「侵略」を「進出」と表現しています。さらに、もっとレベルの高い日本の歴史学者は「日本が当時東アジアや東南アジアを侵略するのは西側の殖民主義者を追い払うためで、日本は『アジアの解放者』で、罪がないばかりか、功労があるのだ」とみています。歴史研究がこれほど行き届いたのは、まるで歴史の創造のようです。
日本は自らが他国に被害をもたらしたことを、忘れがちです。その逆に、外国が自らにもたらされた災いは、日本人が死んでも忘れられず、いつまでも残る歴史的情緒となります。したがって、第二次世界大戦を言うと、日本が直ちに思い出すのは、広島と長崎の原爆で、まるで戦争の被害国のようです。だから、なんで謝罪しなければならないのと思うようになります。
犯罪と懲罰は表裏の関係です。他人のものを盗んだ泥棒が懲罰を受けないなら、犯罪を成立しないでしょう。ドイツの歴史的罪悪感は、同盟国が与えた懲罰と正比例です。こうした懲罰は、軍事上だけでなく、政治や社会的な懲罰もあります。軍事上の懲罰は相対的にそれほど長く続きませんが、より長く続くのは、内的懲罰では政治と社会的な懲罰です。すなわち、同盟軍が、戦争の基盤であったナチズムー旧ドイツの政治体制を崩し、すべてのドイツ人に戦争を真摯に反省させるようにしました。
しかし、日本に対する懲罰は完全に軍事上のもので、しかも懲罰された主体は主要な被害国であったアジア諸国ではなく、アメリカでした。もっとも肝心なのは、懲罰は政治の次元に余り触れておらず、例えば、天皇制度と大部分の政府機構、それに軍国主義者が祭られている靖国神社は残されました。すべての戦犯を法律に則って懲罰しておらず、多数の戦犯が短期間の拘束のあと釈放されました。なおさら、社会の次元に触れていないのはいうまでもありません。戦争の悪党であった理論家や記者などをも処罰していません。
ところが、自ら無罪とすれば本当に無罪でしょうか。ドイツのマスコミは、日本が隣国の角度から歴史を見ることができなければ、隣国との和解はいつまでもできないだろうとしています。この角度と姿勢の転換は日本にとって当面もっとも差し迫った課題です。
http://jp.chinabroadcast.cn/1/2005/05/18/1@40891.htm
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5月9日にモスクワで行われた大祖国防衛戦争勝利60周年を記念するイベントでは、各国の指導者が、観閲台の下を通って、無名戦士の墓にゆっくりと向かう時、日本の小泉首相は急にスピードを出して列の先端に出て、アメリカのブッシュ大統領の肩を叩いたり、ジョークを言ったりして、まるで宴会でも行くようでした。一方、2人の後ろを歩いているドイツのシュレーダー首相は端正で厳粛な表情をしています。
いかなる場合で、数千万人の命を奪った第二次世界大戦に触れるたびに、ドイツのシュレーダー首相は罪悪感を感じています。しかし、同じ第二次世界大戦の枢軸国であった日本の指導者は、あっさりと言ったり、さもなければ、とっくに謝罪したと弁解したりしました。
小泉首相がモスクワの無名戦士の墓の前で現した気楽な姿勢は、日本は罪悪感がないと改めて世界に示しているようです。従って、小泉首相とその閣僚は8月にまた平然と靖国神社を参拝し、しかも、その表情は小泉首相がモスクワにいた時のような気楽さはなく、端正で厳粛になることが予想できます。なぜなら、それは日本自国の亡霊を参拝するからです。
日本はなぜ、真摯に謝罪しようとしないのでしょう。それには様々な解説があります。例えば、日本の軍隊は、他人の命を虫のように扱っているといえば、一部の人類学の学者は、それは日本人が死に対する観念が異なるからで、彼らは自らに対してもこのように残酷だといいます。しかし、自らに刀を突き刺すことが好きだということは、他人に対しても刀を突き刺すことの理由になるのでしょうか。また、日本人が謝罪しようとしないのは、自尊心が強すぎるからだという人もいますが、女性を強姦した人は、自尊心のため強姦をぜんぜん認めないでもいいのでしょうか。
謝罪を要求するには、相手が罪悪感を持つことが前提です。本人が罪の意識がないと、謝罪の要求をうるさいと思うでしょう。歴史の反省を呼びかける声が高まるに対し、日本は漠然としているその深い原因は、自らの罪悪を一切感じていないことにあります。この結論は多くのことによって立証されています。例えば、日本のある歴史学者は1998年、ハーバード大学で「幻の南京大虐殺」をテーマに講演しました。また、日本の一部の歴史教科書は「侵略」を「進出」と表現しています。さらに、もっとレベルの高い日本の歴史学者は「日本が当時東アジアや東南アジアを侵略するのは西側の殖民主義者を追い払うためで、日本は『アジアの解放者』で、罪がないばかりか、功労があるのだ」とみています。歴史研究がこれほど行き届いたのは、まるで歴史の創造のようです。
日本は自らが他国に被害をもたらしたことを、忘れがちです。その逆に、外国が自らにもたらされた災いは、日本人が死んでも忘れられず、いつまでも残る歴史的情緒となります。したがって、第二次世界大戦を言うと、日本が直ちに思い出すのは、広島と長崎の原爆で、まるで戦争の被害国のようです。だから、なんで謝罪しなければならないのと思うようになります。
犯罪と懲罰は表裏の関係です。他人のものを盗んだ泥棒が懲罰を受けないなら、犯罪を成立しないでしょう。ドイツの歴史的罪悪感は、同盟国が与えた懲罰と正比例です。こうした懲罰は、軍事上だけでなく、政治や社会的な懲罰もあります。軍事上の懲罰は相対的にそれほど長く続きませんが、より長く続くのは、内的懲罰では政治と社会的な懲罰です。すなわち、同盟軍が、戦争の基盤であったナチズムー旧ドイツの政治体制を崩し、すべてのドイツ人に戦争を真摯に反省させるようにしました。
しかし、日本に対する懲罰は完全に軍事上のもので、しかも懲罰された主体は主要な被害国であったアジア諸国ではなく、アメリカでした。もっとも肝心なのは、懲罰は政治の次元に余り触れておらず、例えば、天皇制度と大部分の政府機構、それに軍国主義者が祭られている靖国神社は残されました。すべての戦犯を法律に則って懲罰しておらず、多数の戦犯が短期間の拘束のあと釈放されました。なおさら、社会の次元に触れていないのはいうまでもありません。戦争の悪党であった理論家や記者などをも処罰していません。
ところが、自ら無罪とすれば本当に無罪でしょうか。ドイツのマスコミは、日本が隣国の角度から歴史を見ることができなければ、隣国との和解はいつまでもできないだろうとしています。この角度と姿勢の転換は日本にとって当面もっとも差し迫った課題です。
http://jp.chinabroadcast.cn/1/2005/05/18/1@40891.htm
これは メッセージ 1 (nono7370 さん)への返信です.
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