中国の反日デモ

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Re:中国の歴史<−

投稿者: konanetranger 投稿日時: 2005/05/16 00:10 投稿番号: [34983 / 95793]
>海に囲まれた日本も同じでは?部族間の抗争が終わって国にまとまっ
>たのでは?
↑違うでしょうよ、
中国明の銭で統一した事実は違いますか?

「明」これですよね。ここの銭で統一したと言う意味が理解できません。出来れば、詳しい内容を
教えてくれますか?

朱元璋 1328〜98
明王朝の創始者・洪武帝。廟号は太祖。
元の名は朱重八といい安徽省の貧農の家に6人兄弟の末子として生まれ、15歳にして飢饉・疫病のために親兄弟を失い、僧となって淮河流域を放浪した。折りしも元朝末期の政治的退廃と相次ぐ天災による世情不安から1351年に韓林児・劉福通ら白蓮教徒を中心とした紅巾の乱が勃発、その翌年重八は韓林児の配下で故郷の群雄・郭子興の軍に加わり軍才を発揮、その信頼を得て養女・馬氏を妻とし名を元璋と改め、その後は徐達・李文忠・李善長ら文武の人材を配下に加え独自の勢力を確立した。
55年に郭子興が没する最大幹部の一人となり、翌56年に長江を越え集慶(現在の南京)を占領、この戦いでの郭一族の戦死を機にその勢力を完全に掌握、集慶を応天府と改め拠点とした。この頃はまだ宋皇帝を称した韓林児を主君と仰いでいたが劉基・宋濂ら儒学者を配下に迎えてからはその影響の下で紅巾の一叛徒から脱却して儒教主義に方向転換、天下平定を志し、紅巾の最大軍閥・陳友諒、蘇州を拠点に最大の経済力を誇る群雄・張士誠と対決する。1360年までに後の「三国志演義」の赤壁合戦のモデルとされたといわる知略を尽くした戦いぶりで陳友諒を滅ぼし、宋国に対して攻勢に出た張士誠との戦いの最中に白蓮教と絶縁して呉王を名乗り、66年に韓林児を謀殺、翌67年には張士誠を滅ぼした。68年に応天府で帝位につき、国号を明、年号を洪武とし一世一元の制を始めた。
1369年に北方の元に対して討伐軍を送り首都・大都を占領、その勢力をモンゴル高原に追い払い、以後「中華回復」のスローガンの下、漢・唐への復帰を目指した。軍事活動における中国統一は80年代までに達成、諸皇子を北辺に分封して守備にあたらせた。その一方で宋朝の滅亡要因を考慮して皇帝独裁体制の強化を目指し、1380年の丞相・胡惟庸の謀反発覚を契機に唐以来政治の最高機関だった中書省を廃止して行政機関の六部を皇帝直属とし、同時に軍隊の最高統帥権も皇帝のものとした。また地方行政の中心機関・行中書省も廃止して地方官の権力集中を防ぎ、行政・軍事・検察を分立させそれぞれを皇帝に直結させた。また重農主義に基づき81年に全国一斉に魚鱗図冊(土地台帳)・賦役黄冊(戸籍台帳)を作成、農村には里甲制をしいて農民支配を強化、兵農一致を図り衛所制を実施、儒教による人民教化を目指し六諭を公布した。
晩年は皇太子・皇太孫の将来を不安視し、さらなる独裁強化を図って李善長ら建国の功臣を謀反嫌疑のかどで次々に粛清、スパイ網により官吏の行動を監視した。胡惟庸・藍玉の獄などで連座し処刑された官吏は10万人におよんだという。こうして中国史上最強の独裁体制は完成したが、この事が孫・建文帝を補佐する名臣の不在を招いて靖難の変における彼の悲劇の一因となったのは皮肉な事であった。
朱元璋について堺屋太一氏は著作の中で   「信長・秀吉・家康の役割を一人でやってのけた人物」と高く評価しているが杉山正明氏は「時流に乗っただけの幸運な人・配下を殺し尽くした悪の権化」と手厳しい。清の史家・趙翼は「明祖は一人で聖賢と豪傑と盗賊の性質を併有する」多面性を見出しており、それぞれの性格に対するバランスの見方の違いが評価の違いを生じさせているのではないだろうか。その多面性こそが卑賤の身から皇帝に上り詰めるという漢の高祖・劉邦以来の偉業を達成させた一因となったのだろう。
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