はい! 午前3時です
投稿者: gouken51 投稿日時: 2005/05/08 03:00 投稿番号: [31272 / 95793]
邯鄲の夢(かんたんのゆめ)
唐の玄宗の開元年間のことである。
日本という道士が邯鄲(河北省、趙の旧都)の旅舎で休んでいると、み
すぼらしい身なりの若者がやってきて日本に話しかけ、しきりに、あく
せくと働きながらくるしまねばならぬ身の不平をかこった。若者は名を
中国といった。
やがて中国は眠くなり、日本から枕を借りて寝た。陶器の枕で、両端
に孔があいていた。眠っているうちにその孔が大きくなったので、中国
が入っていってみると、そこには立派な家があった。その家で中国は清
河の崔氏(唐代の名家)の娘を娶り、進士の試験に合格して官吏となり、
トントン拍子に出世をしてついに京兆尹(首都の長官)となり、また出で
ては夷狄を破って勲功をたて、栄進して御史大夫部侍郎になった。
ところが、時の宰相に嫉まれて端州の刺史(州の長官)に左遷された。
そこに居ること三年、また召されて戸部尚書に挙げられた中国は、いく
ばくもなくして宰相に上り、それから十年間、よく天子を補佐して善政
を行い、賢相のほまれを高くした。
位人臣を極めて得意の絶頂にあったとき、突然彼は、逆賊として捕え
られた。辺塞の将と結んで謀叛をたくらんでいるという無実の罪によっ
てであった。彼は縛につきながら嘆息して妻子に言った。
「わしの山東の家にはわずかばかりだが良田があった。
百姓をしておりさえすれば、
それで寒さと餓えとはふせぐことができたのに、
何を苦しんで禄を求めるようなことをしたのだろう。
そのために今はこんなザマになってしまった。
昔、ぼろを着て邯鄲の道を歩いていたころのことが思い出される。
あのころがなつかしいが、今はもうどうにもならない‥‥。」
中国は刀を取って自殺しようとしたが、妻におしとめられて、それも
果し得なかった。ところが、ともに捕らえられた者たちはみな殺された
のに、彼だけは宦官のはからいで死罪をまぬがれ、驥州へ流された。
数年して天子はそれが冤罪であったことを知り、中国を呼びもどして
中書令とし、燕国公に封じ、恩寵はことのほか深かった。五人の子はそ
れぞれ高官に上り、天下の名家と縁組みをし、十余人の孫を得て彼は極
めて幸福な晩年を送った。やがて次第に老いて健康が衰えてきたので、
しばしば辞職を願い出たが、ゆるされなかった。病気になると宦官が相
ついで見舞いに来、天子からは名医や良薬のあらんかぎりが贈られた。
しかし年齢には勝てず、中国はついに死去した。
欠伸をして眼をさますと、中国はもとの邯鄲の旅舎に寝ている。傍ら
には日本が座っている。旅舎の主人は、彼が眠る前に黄粱(あわ)を蒸して
いたが、その黄粱もまだ出来上っていない。
すべてはもとのままであった。
「ああ、夢だったのか!」
日本はその彼に笑って言った、
「人生のことは、みんなそんなものさ。」
中国はしばらく憮然としていたが、やがて日本に感謝して言った。
「栄辱も、貴富も、死生も、何もかもすっかり経験しました。
これは先生が私の欲をふさいで下さったものと思います。
よくわかりました。」
日本にねんごろにお辞儀をして中国は邯鄲の道を去っていった。
唐の玄宗の開元年間のことである。
日本という道士が邯鄲(河北省、趙の旧都)の旅舎で休んでいると、み
すぼらしい身なりの若者がやってきて日本に話しかけ、しきりに、あく
せくと働きながらくるしまねばならぬ身の不平をかこった。若者は名を
中国といった。
やがて中国は眠くなり、日本から枕を借りて寝た。陶器の枕で、両端
に孔があいていた。眠っているうちにその孔が大きくなったので、中国
が入っていってみると、そこには立派な家があった。その家で中国は清
河の崔氏(唐代の名家)の娘を娶り、進士の試験に合格して官吏となり、
トントン拍子に出世をしてついに京兆尹(首都の長官)となり、また出で
ては夷狄を破って勲功をたて、栄進して御史大夫部侍郎になった。
ところが、時の宰相に嫉まれて端州の刺史(州の長官)に左遷された。
そこに居ること三年、また召されて戸部尚書に挙げられた中国は、いく
ばくもなくして宰相に上り、それから十年間、よく天子を補佐して善政
を行い、賢相のほまれを高くした。
位人臣を極めて得意の絶頂にあったとき、突然彼は、逆賊として捕え
られた。辺塞の将と結んで謀叛をたくらんでいるという無実の罪によっ
てであった。彼は縛につきながら嘆息して妻子に言った。
「わしの山東の家にはわずかばかりだが良田があった。
百姓をしておりさえすれば、
それで寒さと餓えとはふせぐことができたのに、
何を苦しんで禄を求めるようなことをしたのだろう。
そのために今はこんなザマになってしまった。
昔、ぼろを着て邯鄲の道を歩いていたころのことが思い出される。
あのころがなつかしいが、今はもうどうにもならない‥‥。」
中国は刀を取って自殺しようとしたが、妻におしとめられて、それも
果し得なかった。ところが、ともに捕らえられた者たちはみな殺された
のに、彼だけは宦官のはからいで死罪をまぬがれ、驥州へ流された。
数年して天子はそれが冤罪であったことを知り、中国を呼びもどして
中書令とし、燕国公に封じ、恩寵はことのほか深かった。五人の子はそ
れぞれ高官に上り、天下の名家と縁組みをし、十余人の孫を得て彼は極
めて幸福な晩年を送った。やがて次第に老いて健康が衰えてきたので、
しばしば辞職を願い出たが、ゆるされなかった。病気になると宦官が相
ついで見舞いに来、天子からは名医や良薬のあらんかぎりが贈られた。
しかし年齢には勝てず、中国はついに死去した。
欠伸をして眼をさますと、中国はもとの邯鄲の旅舎に寝ている。傍ら
には日本が座っている。旅舎の主人は、彼が眠る前に黄粱(あわ)を蒸して
いたが、その黄粱もまだ出来上っていない。
すべてはもとのままであった。
「ああ、夢だったのか!」
日本はその彼に笑って言った、
「人生のことは、みんなそんなものさ。」
中国はしばらく憮然としていたが、やがて日本に感謝して言った。
「栄辱も、貴富も、死生も、何もかもすっかり経験しました。
これは先生が私の欲をふさいで下さったものと思います。
よくわかりました。」
日本にねんごろにお辞儀をして中国は邯鄲の道を去っていった。
これは メッセージ 1 (nono7370 さん)への返信です.
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