中国人エリートのためのコラム(1)
投稿者: sawayakanikoniko 投稿日時: 2005/05/02 09:37 投稿番号: [27995 / 95793]
二宮尊徳翁は言われた。学問は活用を尊ぶ。万巻の書を読んだとしても活用しなければ役に立たないものだ。
論語に「里は仁をよしとす、択(えら)んで仁に居らずんばいずくんぞ知を得ん」とある。まことに名言。ではあるが旅役者や借家人などなら、択んで仁の村に居ることもできるだろう。
しかし田畑山林家蔵を所有する何村の何某というほどの者、いくら仁義の村があるからといってその村に引っ越すことができようか。とはいってもその不仁の村に不快ながら住んでいては、智者と言われないのは勿論だ。さてきっぱりと不仁の村を捨てて仁義の村へ引っ越す者があったとしても、私はこれを智者とは言わず、書を読んで活用を知らない愚者というだろう。
なぜなら、何村の何某といわれるほどの者、全戸を他村に引移すことは容易ではない、その費用も莫大であろう。この莫大な金を捨て、住みなれた故郷を捨てる、愚ではないか。
さて人には道というものがある。道はどんなに野蛮な国にでも行われるものだから、どんなに不仁の村里であっても道の行われないはずはない。自らこの道を行って不仁の村を仁義の村にして、先祖代々そこに永住することこそ智というべきだ。このようでなければ決して智者とは言えない。
そしてその不仁の村を仁義の村にするのは非常に難しいということはない。まず自分が道をふんで自分の家を仁にすることだ。自分の家が仁にならなくて村里を仁にしようとするのは、白砂を炊いて飯にしようとするようなもの。自分の家がほんとうに仁になれば、村里が仁にならないことはない。
「大学」に「一家仁なれば一国仁に興り、一家譲りあれば一国譲りに興る」 。「論語」に「誠に仁に志せば悪なし」とある通り、けっして間違ってはいない。
たとえばここに竹や木などが本末入り交り縦横に入り乱れてある。これを一本ずつ本を本とし末を末として最後まで整えれば、本末そろって整然となる。
「論語」に「直きを挙げ(挙用し)てもろもろのまがれるをおけ(放棄すれ)ば、則ち民服す。まがれるを挙げて諸の直きをおけば、則ち民服せず」とある通り、善人を挙げ直人を挙げて厚く賞誉して怠らなかったなら、必ず4〜5年以内に整然たる仁義の村になること疑いないのだ。
世間の富者はこの理に暗くて、書を読んで活用を知らず、わが家を仁義にすることを知らず、意味も無く迷いをとって村里の不仁なのをにくみ、村人は義を知らず気風が悪く行儀が悪いと罵り、他方へ移ろうとする者が往々にしてある。愚というべきだ。
さて村里の気風を一新し風俗を一洗するということは、最も難しいことではあるが、まごころを以ってその方法をとれば、さほど難しくはない。まず衰貧を挽回し頽廃を復興することから手を下し、方法のようにして漸次気風行儀を一洗しなさい。
さてその気風行儀を一新するには機会がある。例えば今ここに戸数100の村がある。そのうち40戸は衣食不足なく、60戸は窮乏であれば村中その貧を恥としない。貧を恥としなければ租税を納めないのも恥じず、借財を返さないのも恥じず、夫役(官への労働の提供)を怠るのを恥じず、質に入れるのを恥じず、無理非道をいうのを恥じない。このようになれば法令も村役人の権限もない。法令も行使されないのであれば悪行はどこにでもある。どうやってこれを導くことができよう。こうなっては法令も教諭もみな役に立たない。また100戸のうち60戸は衣食不足なく、40戸は貧窮である時には、教えなくても自然と恥が生まれる。
恥が生まれると義心も生まれる。義心が生まれると租税を納めないのを恥じ、借財を返さないのを恥じ、夫役を怠るのを恥じ、質に入れるのを恥じ、無理非道をいうのを恥じるようになる。こうなって法令も行使され教導も行われ、善導にも導くよう、勉強にも赴かせなさい。
そのきっかけはこのようなものだ。例えば秤の釣合いのようなもの。左が重ければ左に傾き、右が重ければ右に傾くように、村内に貧民が多ければ貧に傾き、悪が多い時には悪に傾く。そこで互いに恥じない。富が多いときには富に傾き、善が多い時には善に傾く。そこで恥が生じると義心を生じる。汚俗を一洗し一村を復興する仕事は、ただこの機会にあるだけだ。知らねばならない。
どんな良法仁術といっても村中1戸も貧者を無くすということは難しい。なぜなら人には勤惰があり強弱があり智愚があり、家に積善があり不積善がある。それだけでなく前世の宿因もあり、これをどうすることもできない。このような貧者はただその時々の不足を補って、再び貧乏に陥らせないようにすることだ。
論語に「里は仁をよしとす、択(えら)んで仁に居らずんばいずくんぞ知を得ん」とある。まことに名言。ではあるが旅役者や借家人などなら、択んで仁の村に居ることもできるだろう。
しかし田畑山林家蔵を所有する何村の何某というほどの者、いくら仁義の村があるからといってその村に引っ越すことができようか。とはいってもその不仁の村に不快ながら住んでいては、智者と言われないのは勿論だ。さてきっぱりと不仁の村を捨てて仁義の村へ引っ越す者があったとしても、私はこれを智者とは言わず、書を読んで活用を知らない愚者というだろう。
なぜなら、何村の何某といわれるほどの者、全戸を他村に引移すことは容易ではない、その費用も莫大であろう。この莫大な金を捨て、住みなれた故郷を捨てる、愚ではないか。
さて人には道というものがある。道はどんなに野蛮な国にでも行われるものだから、どんなに不仁の村里であっても道の行われないはずはない。自らこの道を行って不仁の村を仁義の村にして、先祖代々そこに永住することこそ智というべきだ。このようでなければ決して智者とは言えない。
そしてその不仁の村を仁義の村にするのは非常に難しいということはない。まず自分が道をふんで自分の家を仁にすることだ。自分の家が仁にならなくて村里を仁にしようとするのは、白砂を炊いて飯にしようとするようなもの。自分の家がほんとうに仁になれば、村里が仁にならないことはない。
「大学」に「一家仁なれば一国仁に興り、一家譲りあれば一国譲りに興る」 。「論語」に「誠に仁に志せば悪なし」とある通り、けっして間違ってはいない。
たとえばここに竹や木などが本末入り交り縦横に入り乱れてある。これを一本ずつ本を本とし末を末として最後まで整えれば、本末そろって整然となる。
「論語」に「直きを挙げ(挙用し)てもろもろのまがれるをおけ(放棄すれ)ば、則ち民服す。まがれるを挙げて諸の直きをおけば、則ち民服せず」とある通り、善人を挙げ直人を挙げて厚く賞誉して怠らなかったなら、必ず4〜5年以内に整然たる仁義の村になること疑いないのだ。
世間の富者はこの理に暗くて、書を読んで活用を知らず、わが家を仁義にすることを知らず、意味も無く迷いをとって村里の不仁なのをにくみ、村人は義を知らず気風が悪く行儀が悪いと罵り、他方へ移ろうとする者が往々にしてある。愚というべきだ。
さて村里の気風を一新し風俗を一洗するということは、最も難しいことではあるが、まごころを以ってその方法をとれば、さほど難しくはない。まず衰貧を挽回し頽廃を復興することから手を下し、方法のようにして漸次気風行儀を一洗しなさい。
さてその気風行儀を一新するには機会がある。例えば今ここに戸数100の村がある。そのうち40戸は衣食不足なく、60戸は窮乏であれば村中その貧を恥としない。貧を恥としなければ租税を納めないのも恥じず、借財を返さないのも恥じず、夫役(官への労働の提供)を怠るのを恥じず、質に入れるのを恥じず、無理非道をいうのを恥じない。このようになれば法令も村役人の権限もない。法令も行使されないのであれば悪行はどこにでもある。どうやってこれを導くことができよう。こうなっては法令も教諭もみな役に立たない。また100戸のうち60戸は衣食不足なく、40戸は貧窮である時には、教えなくても自然と恥が生まれる。
恥が生まれると義心も生まれる。義心が生まれると租税を納めないのを恥じ、借財を返さないのを恥じ、夫役を怠るのを恥じ、質に入れるのを恥じ、無理非道をいうのを恥じるようになる。こうなって法令も行使され教導も行われ、善導にも導くよう、勉強にも赴かせなさい。
そのきっかけはこのようなものだ。例えば秤の釣合いのようなもの。左が重ければ左に傾き、右が重ければ右に傾くように、村内に貧民が多ければ貧に傾き、悪が多い時には悪に傾く。そこで互いに恥じない。富が多いときには富に傾き、善が多い時には善に傾く。そこで恥が生じると義心を生じる。汚俗を一洗し一村を復興する仕事は、ただこの機会にあるだけだ。知らねばならない。
どんな良法仁術といっても村中1戸も貧者を無くすということは難しい。なぜなら人には勤惰があり強弱があり智愚があり、家に積善があり不積善がある。それだけでなく前世の宿因もあり、これをどうすることもできない。このような貧者はただその時々の不足を補って、再び貧乏に陥らせないようにすることだ。
これは メッセージ 1 (nono7370 さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/552022058/cf9qa4nhbfffca5ga5b_1/27995.html