交流におけるメディアの功罪
投稿者: jibaku_roman 投稿日時: 2005/04/22 19:54 投稿番号: [19536 / 95793]
たとえば、「ある人物」のことを、たまに15秒くらいで、テレビのニュースやワイドショーで流すとしましょう。
で、そのテレビをたまに見た人は、それだけで、「ある人物」のことを、「そういう人」だと判断する。
たとえば、「ある人物」というところを、各人が、自分自身に置き換えると、実感すると思うのだが、その部分的な情報でイメージを作られるのは、非常につらいし、悔しいし、悲しいものがある。
そのイメージが全国的規模のひろがりになってしまえば、どれだけ嘘であったとしても、ある意味、それは常識となり「真実」になってしまう。
また、実際は、善9割。悪1割。だったとしても、報道の仕方では、善1割。悪9割と、間違ったイメージとなる。
しかも、流すに値するものしか流さない。
その判断基準は、「テレビ的に」流すに値するかどうかである。
これはある意味、仕方がないのだけれども、今回、上で言うところの「ある人物」
が、日本、中国、韓国。なわけで、問題だ。
人は、直接自分の眼で見れる範囲が狭い故に、どうしても、メディアという、遠くのものをも、時間を超えてみれる、便利な眼で、「世界」や「世間」をみてしまうのだが、異文化を知る場合、メディアによって理解が深まりもすれば、溝が深まる場合もある。
切り取られた情報と、いかに付き合うのか。
日常的な詐欺や、日常的な偏見、等も含めて、情報とどうつきあうのか、中高生レベルの学校の授業で、学んでもいいように思う。
これは メッセージ 1 (nono7370 さん)への返信です.
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