War Guilt Information Programのつづき3
投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/08/27 09:41 投稿番号: [8322 / 8458]
昭和20年当時、米軍検閲官が開封した私信(江藤は「戦地にいる肉親への郵便」かという)は次のような文言で埋めつくされていた。
「突然のことなので驚いております。政府がいくら最悪の事態になったといっても、聖戦完遂を誓った以上は犬死はしたくありません。敵は人道主義、国際主義などと唱えていますが、日本人に対してしたあの所業はどうでしょうか。数知れぬ戦争犠牲者のことを思ってほしいと思います。憎しみを感じないわけにはいきません」(8月16日付)
「大東亜戦争がみじめな結末を迎えたのは御承知の通りです。通学の途中にも、他の場所でも、あの憎い米兵の姿を見かけなければならなくなりました。今日の午後には、米兵が何人か学校の近くの床屋にはいっていました。米兵は学校にもやって来て、教室を見まわって行きました。何ていやな奴等でしょう! ぼくたち子供ですら、怒りを感じます。戦死した兵隊さんがこの光景を見たら、どんな気持がするでしょうか」(9月29日付)
江藤は、「ここで注目すべきは、当時の日本人が戦争と敗戦の悲惨さをもたらしたのが、自らの「邪悪」さとは考えていなかったという事実である。「数知れぬ戦争犠牲者は、日本の「邪悪」さの故に生れたのではなく、「敵」、つまり米軍の殺戮と破壊の結果生れたのである。「憎しみ」を感ずべき相手は日本政府や日本軍であるよりは、先ずもって当の殺戮者、破壊者でなくてはならない。当時の日本人は、ごく順当にこう考えていた。」と指摘した。
GHQ文書(月報)には敗戦直後の様子が記されていた。「占領軍が東京入したとき、日本人の間に戦争贖罪意識は全くといっていいほど存在しなかった。(略)日本の敗北は単に産業と科学の劣性と原爆のゆえであるという信念が行きわたっていた」
こうした日本人の国民感情はその後もしばらく続き、CIEの文書はG-2(CIS)隷下の民間検閲支隊 (CCD) の情報によれば昭和23年になっても「依然として日本人の心に、占領者の望むようなかたちで「ウォー・ギルト」が定着してなかった」有力な証拠であると江藤は指摘する。 また、このプログラムが以後正確に東京裁判などの節目々々の時期に合わせて展開していった事実は看過できないとも指摘する。
東京裁判で東條英機による陳述があったその2箇月後、民間情報教育局 (CIE) は世論の動向に関して次のような分析を行っている。「一部日本人の中には(中略)東條は確信を持つて主張した、彼の勇気を日本国民は称賛すべきだとする感情が高まつてゐる。これは、東條を処刑する段になると東條の殉教といふところまで拡大する恐れがある。」「広島における原子爆弾の使用を『残虐行為』と見做す・・・最近の傾向」(昭和23年(1948年)3月3日附CIE局長宛覚書) こうした国民の機運の醸成に対しCIE局長は6月19日、民間諜報局 (CIS) の同意を得た上で、プログラムに第三段階を加える手筈を整え、情報宣伝に於ける対抗処置を取った。
実例
昭和20年(1945年)12月8日から、「太平洋戦争史」を全国の新聞に掲載させた。
「太平洋戦争史」は新聞連載終了後、中屋健弌訳で翌年高山書院から刊行された(発行日は4月5日と6月10日の2回)。
昭和20年(1945年)12月15日 - GHQ、覚書「国家神道、神社神道ニ対スル政府ノ保証、支援、保全、監督並ニ弘布ニ関スル件」(いわゆる「神道指令」)によって、公文書で「大東亜戦争」という用語の使用を禁止。
昭和20年(1945年)12月31日 - GHQ、覚書「修身、日本歴史及ビ地理停止ニ関スル件」によって、修身・国史・地理の授業停止と教科書の回収、教科書の改訂を指令。
昭和21年(1946年)1月11日 - 文部省、修身・日本歴史・地理停止に関するGHQ指令について通達。
昭和21年(1946年)2月12日 - 文部省、修身・国史・地理教科書の回収について通達。
昭和21年(1946年)4月9日 - 文部省、国史教科書の代用教材として『太平洋戦争史』を購入、利用するよう通達。
昭和20年(1945年)12月9日から、『眞相はかうだ』をラジオで放送させた。
『眞相はかうだ』は番組名を変えながら、昭和23年(1948年)1月まで続けられた。
極東国際軍事裁判
昭和24年(1949年)2月、長崎の鐘にマニラの悲劇を特別附録として挿入させる。
「突然のことなので驚いております。政府がいくら最悪の事態になったといっても、聖戦完遂を誓った以上は犬死はしたくありません。敵は人道主義、国際主義などと唱えていますが、日本人に対してしたあの所業はどうでしょうか。数知れぬ戦争犠牲者のことを思ってほしいと思います。憎しみを感じないわけにはいきません」(8月16日付)
「大東亜戦争がみじめな結末を迎えたのは御承知の通りです。通学の途中にも、他の場所でも、あの憎い米兵の姿を見かけなければならなくなりました。今日の午後には、米兵が何人か学校の近くの床屋にはいっていました。米兵は学校にもやって来て、教室を見まわって行きました。何ていやな奴等でしょう! ぼくたち子供ですら、怒りを感じます。戦死した兵隊さんがこの光景を見たら、どんな気持がするでしょうか」(9月29日付)
江藤は、「ここで注目すべきは、当時の日本人が戦争と敗戦の悲惨さをもたらしたのが、自らの「邪悪」さとは考えていなかったという事実である。「数知れぬ戦争犠牲者は、日本の「邪悪」さの故に生れたのではなく、「敵」、つまり米軍の殺戮と破壊の結果生れたのである。「憎しみ」を感ずべき相手は日本政府や日本軍であるよりは、先ずもって当の殺戮者、破壊者でなくてはならない。当時の日本人は、ごく順当にこう考えていた。」と指摘した。
GHQ文書(月報)には敗戦直後の様子が記されていた。「占領軍が東京入したとき、日本人の間に戦争贖罪意識は全くといっていいほど存在しなかった。(略)日本の敗北は単に産業と科学の劣性と原爆のゆえであるという信念が行きわたっていた」
こうした日本人の国民感情はその後もしばらく続き、CIEの文書はG-2(CIS)隷下の民間検閲支隊 (CCD) の情報によれば昭和23年になっても「依然として日本人の心に、占領者の望むようなかたちで「ウォー・ギルト」が定着してなかった」有力な証拠であると江藤は指摘する。 また、このプログラムが以後正確に東京裁判などの節目々々の時期に合わせて展開していった事実は看過できないとも指摘する。
東京裁判で東條英機による陳述があったその2箇月後、民間情報教育局 (CIE) は世論の動向に関して次のような分析を行っている。「一部日本人の中には(中略)東條は確信を持つて主張した、彼の勇気を日本国民は称賛すべきだとする感情が高まつてゐる。これは、東條を処刑する段になると東條の殉教といふところまで拡大する恐れがある。」「広島における原子爆弾の使用を『残虐行為』と見做す・・・最近の傾向」(昭和23年(1948年)3月3日附CIE局長宛覚書) こうした国民の機運の醸成に対しCIE局長は6月19日、民間諜報局 (CIS) の同意を得た上で、プログラムに第三段階を加える手筈を整え、情報宣伝に於ける対抗処置を取った。
実例
昭和20年(1945年)12月8日から、「太平洋戦争史」を全国の新聞に掲載させた。
「太平洋戦争史」は新聞連載終了後、中屋健弌訳で翌年高山書院から刊行された(発行日は4月5日と6月10日の2回)。
昭和20年(1945年)12月15日 - GHQ、覚書「国家神道、神社神道ニ対スル政府ノ保証、支援、保全、監督並ニ弘布ニ関スル件」(いわゆる「神道指令」)によって、公文書で「大東亜戦争」という用語の使用を禁止。
昭和20年(1945年)12月31日 - GHQ、覚書「修身、日本歴史及ビ地理停止ニ関スル件」によって、修身・国史・地理の授業停止と教科書の回収、教科書の改訂を指令。
昭和21年(1946年)1月11日 - 文部省、修身・日本歴史・地理停止に関するGHQ指令について通達。
昭和21年(1946年)2月12日 - 文部省、修身・国史・地理教科書の回収について通達。
昭和21年(1946年)4月9日 - 文部省、国史教科書の代用教材として『太平洋戦争史』を購入、利用するよう通達。
昭和20年(1945年)12月9日から、『眞相はかうだ』をラジオで放送させた。
『眞相はかうだ』は番組名を変えながら、昭和23年(1948年)1月まで続けられた。
極東国際軍事裁判
昭和24年(1949年)2月、長崎の鐘にマニラの悲劇を特別附録として挿入させる。
これは メッセージ 1 (keisatsufushouji さん)への返信です.
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