Re: ふ〜ん
投稿者: sensouhouki6 投稿日時: 2010/06/28 08:06 投稿番号: [7763 / 8458]
『ザ・コーヴ』『靖国』と『プライド』抗議の相違
【PJニュース 2010年6月24日】映画『ザ・コーヴ』が右翼団体などの攻撃により、上映中止を余儀なくされている。この経緯は映画『靖国 YASUKUNI』と共通する(林田力「『ザ・コーヴ』『靖国』上映妨害は表現の自由の侵害(上) 」PJニュース2010年6月21日)。
同じく上映が抗議されながら、似て非なる動きに映画『プライド 運命の瞬間(とき)』(伊藤俊也監督、1998年)がある。上映妨害問題の本質を理解する上で両者の区別は重要である。そこから『ザ・コーヴ』や『靖国』上映騒動の問題性が明らかになる。
『プライド』はA級戦犯として絞首刑に処せられた東条英機元首相を主役とした作品である。この映画は日本による侵略戦争をアジア解放の戦争のように印象づけ、歴史を歪曲・偽造していると強く批判された。製作した東映の労働組合や文化人らによって結成された「映画『プライド』を批判する会」は東映に対し、映画公開の中止を申し入れた。
「映画『プライド』を批判する会」の発展的解消により結成された「映画の自由と真実を守る全国ネットワーク」(映画の自由と真実ネット)は映画『ムルデカ17805』(藤由紀夫監督、2001年)にも抗議した。これはインドネシア独立の戦いを描いた作品であるが、日本がインドネシア独立をもたらしたとして、侵略戦争の歴史的事実を歪曲し、美化するものと批判した。
これらの映画の上映に抗議した人々が、『靖国』では上映妨害の動きを批判した。これに『ザ・コーヴ』の上映妨害を批判する層も連なる。これをダブルスタンダード(二重基準)と批判する見解がある。
結論から言えば『プライド』の上映中止を求めた人が、『靖国』や『ザ・コーヴ』の上映中止の動きに抗議することは一貫性のある行動である。『プライド』批判は、労組や市民団体が中心であった。言論の自由の範囲内の抗議活動である。これに対し、『靖国』では右翼団体による映画館への威嚇や稲田朋美・衆議院議員らによる政治的圧力が問題視された。このような動きに対して表現の自由を守るために抗議した。
実際、映画演劇労働組合連合会(映演労連)の2008年4月1日の声明では以下のように主張する。「公開が決まっていた映画が、政治圧力や上映妨害によって圧殺されるという事態は、日本映画と日本映画界に、将来にわたって深刻なダメージを与えるものである」
あくまで抗議は、政治圧力や上映妨害という手法に対してである。ここでは『靖国』や『ザ・コーヴ』の批判者の批判理由は問題にされていない。『靖国』や『ザ・コーヴ』を「反日的である」「制作過程に問題がある」と批判することは自由である。問題は上映妨害や政治圧力が行われたことである。
そして映画における表現の自由を守るための戦いは『靖国』が最初ではなかった。南京大虐殺を描いた映画『南京1937』においても右翼団体による上映妨害が繰り返されていた。1998年6月には横浜市の映画館で上映中に右翼団体構成員によってスクリーンが切り裂かれた。1999年10月には千葉県柏市が右翼団体の抗議活動を理由に上映会場である市民文化会館の使用許可を取り消した。
『靖国』上映中止の動きに抗議した人々の多くは『南京1937』の上映妨害に対しても強く抗議していた。『靖国』上映支持派の抗議活動が手際よく行われたことを疑問視する向きもある。しかし、上映妨害は今回が初めてではなく、過去の活動の蓄積があるため、手際が良いことは当然である。
歴史歪曲映画に対する抗議と表現の自由の侵害に対する抗議が一貫性あるものとして認識されていることは「映画の自由と真実ネット」の発足アピール文から明白になる。
「1年前に公開された映画『プライド〜運命の瞬間〜』は、戦後半世紀を経てはじめてと言っていいほど、歴史の真実に背を向けたものでしたが、その公開と併行して「歴史の真実」に迫る中国映画『南京1937』の上映は、右翼による激しい暴力的な妨害に直面しました。その右翼の街宣車に『プライド』のポスターが貼られていたことが示すように、「歴史の真実」を踏みにじる力と「映画の自由」を押しつぶそうとするものとは、完全に表裏一体を成しています」
公正とは「等しきものには等しく、等しからざるものには等しからざるものを」ということである。『プライド』に対する抗議と『靖国』や『ザ・コーヴ』に対する抗議は本質的に異なる。表面的な現象の類似性に惑わされず、等しからざるものには異なる評価を下すことが公正な判断である。【了】
【PJニュース 2010年6月24日】映画『ザ・コーヴ』が右翼団体などの攻撃により、上映中止を余儀なくされている。この経緯は映画『靖国 YASUKUNI』と共通する(林田力「『ザ・コーヴ』『靖国』上映妨害は表現の自由の侵害(上) 」PJニュース2010年6月21日)。
同じく上映が抗議されながら、似て非なる動きに映画『プライド 運命の瞬間(とき)』(伊藤俊也監督、1998年)がある。上映妨害問題の本質を理解する上で両者の区別は重要である。そこから『ザ・コーヴ』や『靖国』上映騒動の問題性が明らかになる。
『プライド』はA級戦犯として絞首刑に処せられた東条英機元首相を主役とした作品である。この映画は日本による侵略戦争をアジア解放の戦争のように印象づけ、歴史を歪曲・偽造していると強く批判された。製作した東映の労働組合や文化人らによって結成された「映画『プライド』を批判する会」は東映に対し、映画公開の中止を申し入れた。
「映画『プライド』を批判する会」の発展的解消により結成された「映画の自由と真実を守る全国ネットワーク」(映画の自由と真実ネット)は映画『ムルデカ17805』(藤由紀夫監督、2001年)にも抗議した。これはインドネシア独立の戦いを描いた作品であるが、日本がインドネシア独立をもたらしたとして、侵略戦争の歴史的事実を歪曲し、美化するものと批判した。
これらの映画の上映に抗議した人々が、『靖国』では上映妨害の動きを批判した。これに『ザ・コーヴ』の上映妨害を批判する層も連なる。これをダブルスタンダード(二重基準)と批判する見解がある。
結論から言えば『プライド』の上映中止を求めた人が、『靖国』や『ザ・コーヴ』の上映中止の動きに抗議することは一貫性のある行動である。『プライド』批判は、労組や市民団体が中心であった。言論の自由の範囲内の抗議活動である。これに対し、『靖国』では右翼団体による映画館への威嚇や稲田朋美・衆議院議員らによる政治的圧力が問題視された。このような動きに対して表現の自由を守るために抗議した。
実際、映画演劇労働組合連合会(映演労連)の2008年4月1日の声明では以下のように主張する。「公開が決まっていた映画が、政治圧力や上映妨害によって圧殺されるという事態は、日本映画と日本映画界に、将来にわたって深刻なダメージを与えるものである」
あくまで抗議は、政治圧力や上映妨害という手法に対してである。ここでは『靖国』や『ザ・コーヴ』の批判者の批判理由は問題にされていない。『靖国』や『ザ・コーヴ』を「反日的である」「制作過程に問題がある」と批判することは自由である。問題は上映妨害や政治圧力が行われたことである。
そして映画における表現の自由を守るための戦いは『靖国』が最初ではなかった。南京大虐殺を描いた映画『南京1937』においても右翼団体による上映妨害が繰り返されていた。1998年6月には横浜市の映画館で上映中に右翼団体構成員によってスクリーンが切り裂かれた。1999年10月には千葉県柏市が右翼団体の抗議活動を理由に上映会場である市民文化会館の使用許可を取り消した。
『靖国』上映中止の動きに抗議した人々の多くは『南京1937』の上映妨害に対しても強く抗議していた。『靖国』上映支持派の抗議活動が手際よく行われたことを疑問視する向きもある。しかし、上映妨害は今回が初めてではなく、過去の活動の蓄積があるため、手際が良いことは当然である。
歴史歪曲映画に対する抗議と表現の自由の侵害に対する抗議が一貫性あるものとして認識されていることは「映画の自由と真実ネット」の発足アピール文から明白になる。
「1年前に公開された映画『プライド〜運命の瞬間〜』は、戦後半世紀を経てはじめてと言っていいほど、歴史の真実に背を向けたものでしたが、その公開と併行して「歴史の真実」に迫る中国映画『南京1937』の上映は、右翼による激しい暴力的な妨害に直面しました。その右翼の街宣車に『プライド』のポスターが貼られていたことが示すように、「歴史の真実」を踏みにじる力と「映画の自由」を押しつぶそうとするものとは、完全に表裏一体を成しています」
公正とは「等しきものには等しく、等しからざるものには等しからざるものを」ということである。『プライド』に対する抗議と『靖国』や『ザ・コーヴ』に対する抗議は本質的に異なる。表面的な現象の類似性に惑わされず、等しからざるものには異なる評価を下すことが公正な判断である。【了】
これは メッセージ 7762 (metamorphosis5 さん)への返信です.
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