1900年 朝鮮人はまだ独島を知らなかった
投稿者: anti_mainas_shikou 投稿日時: 2011/06/02 22:39 投稿番号: [16 / 131]
>1877年3月、明治政府は岩倉右大臣以下三名の参議の同意を得て、
「竹島外一島本邦関係無之儀」と決定。(この中の「竹島」は現在の
鬱陵(うつりょう)島。「外一島」が現在の竹島にあたる)
これは、鬱陵島に関して議論しているのであって、はるか離れた、今の竹島について
議論しているのではない。「外一島」
とは、竹島
(チュクド)
か、石島の事。
1900年の勅令に
「独島」
という名前はない。
勅令第四十一号
第一条 鬱陵島を欝島と改称し、江原道に所属させ、島監を郡守に改正し、
官制に編入し、郡等級は五等にすること
第二条 郡庁は台霞洞に置き、区域は鬱陵全島と竹島、石島を管轄すること
とある。
ここでいう
「竹島」
とは日本の言う竹島
(タケシマ)
ではなく、
鬱陵島のそばにある竹島
(チュクド)
のこと、石島とは観音島の事。
当時大韓帝国は
まだ、日本の言う
「竹島」
の存在を知らなかった。
大韓地誌では
「鬱島郡の行政地域は東経130度35分から45分までである」
としている。
1899年の大韓全図に大韓帝国の図が描いてあるが、鬱陵島と于山島はその位置にある。
日本の
「竹島」
はその行政区の外、 東経131度55分に在る。
その前の1882年
国王・高宗は、李奎遠対し、「松竹島、芋山島は鬱陵島の傍らに在り、
しかしてその相距たる遠近いかん。また何れの物有りや否や」
と下問している。
この高宗の質問に対して李奎遠は
「芋山島は即ち鬱陵島にて、芋山は古
(いにしえ)
の
国都の名なり」とし、「松竹島は即ち一小島にて、相距たること
十里(今の2Kmに相当)、その産するところは即ち檀香と簡竹」
と、答えている。
要するに、日本の言う竹島とは関係ない。
朝鮮人の知り得る領域はそこまで、はるか東の、竹島など存在すら知らなかった。
だから、「独島」
という名前もなかった。
韓国が日本統治になってから、日本人といっしょに、竹島に行った者が
遠くにあるので
「独島」
と名付けたと言うべきだ。
朝鮮人が、日本の竹島を于山島と妄想するのは、日本統治以後だろう。
于山島は鬱陵島の事なのだが。新羅本紀に書いてある。
これは メッセージ 1 (jtwon05 さん)への返信です.
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