鯨問題に見る動物感
投稿者: kaseijin_2006 投稿日時: 2008/01/20 17:01 投稿番号: [975 / 63339]
日本人の多くの動物感というのは、この掲示板でもいくつか書かれているが、どの生き物(特に動物)も等しく魂(soul, spirit)を持っているという漠然とした思いに特徴付けられる。
そのことが、どの動物(哺乳類としぼってもいいが)の命にも軽重はないという思いにつながる。そして、人間が生きるということは、それらの動物の命の犠牲の上に成り立っているということになる(精進料理-vegan diet-で生活しているお坊さんもいるが)。
他方、米英豪の人たちの主張を聞いていると、(veganもいるけれども)、牛、豚などに関しては徹底した割り切りである。単なる食料としてしか見ていないように受け取れる。
日本人が思っているように、牛、豚なども魂(soul, spirit)を持った生き物として彼らがみているとは思えない(或いは、そういう見方は希薄である)。
この相違の根底にあるものは何か、考えるに、
これは、一つの見方ではあるが、日本人には仏教の教えが影響しているのか、輪廻・転生(transmigration of the soul; the (never-ending) cycle of reincarnation; metempsychosis)という思想がなんとなく日本人の心の奥底にあるような気がする。
だから、どんな動物の命にも軽重はないという思いが形成される。
他方、キリスト教世界で育った人たちは、牛、羊、などは神によって「食べてよいもの」と教えられる。神の教えてあるからそれは絶対的なものである。それに疑問を持つものは、神に疑問を持つのと同じで、恐れ多いことである。(豚はどうなんじゃ、ということにはなるが)。日本人が、「じゃ、牛や豚を殺すのはどうなんだ」と問題提起しても、彼は、「ん、それがどうした。神が食料として認めたものに何の問題もない」で、彼らにとってはそのことは議論の対象にはなりえない。
だから、ここで、日本人の多くが、鯨と牛の命を差別するのはアンフェア(unfair)だと主張しても、彼らには、そういう議論には入れない。彼らにとって、神から認められたものは議論の対象になりえないからだ。
もう一つの相違は、言葉の世界にある。
日本語では、牛肉であり、豚肉であり、羊肉(またはマトン)であって、肉にはもとの動物の名前と不可分の関係になっている。
(これは、もともと狩猟民族ではなかったことに由来するかもしれないが)
英語世界では、それぞれの肉は、beefであり、porkであり、muttonであって、もとの動物の名前、cow, pig/hog, sheepとは別の言葉が使われる。ここでも、牛(cow), 豚(pig/hog), 羊(sheep)の肉は、これらの動物とは言葉の上では独立した存在になっている。
勿論、これはそれぞれの言葉の由来の別(古代英語とラテン)から説明されているけれども、結果として、それらの肉は、言葉の上で元の動物との連想を断ち切られて、単なる「人間が食べるための肉」であるという思考の形成を促す。
こう見てくると、両者の間には深い溝があって、到底その溝は埋まりそうにない。
日本が南氷洋捕鯨を継続するかどうかの判断は、結局のところ、経済合理性から日本人の多数としてどう判断するかにかかってくるのではないか。現在は、国の補助を得て行っているのであるから、国としていつまでその補助を続けていけるか・・、続けるのが有意義なのかということだろう。
かと言って、南氷洋捕鯨の規模を拡大するのは調査捕鯨という性格からいって問題が大きい。
沿岸、近海捕鯨だけに絞れば、本質的な反対論は消えないにしても、反対論者は今よりは相当減少する。
ただ、沿岸、近海の鯨は水銀濃度が高いということも言われている(所詮、毎日食べるものではないけれども)。
そのことが、どの動物(哺乳類としぼってもいいが)の命にも軽重はないという思いにつながる。そして、人間が生きるということは、それらの動物の命の犠牲の上に成り立っているということになる(精進料理-vegan diet-で生活しているお坊さんもいるが)。
他方、米英豪の人たちの主張を聞いていると、(veganもいるけれども)、牛、豚などに関しては徹底した割り切りである。単なる食料としてしか見ていないように受け取れる。
日本人が思っているように、牛、豚なども魂(soul, spirit)を持った生き物として彼らがみているとは思えない(或いは、そういう見方は希薄である)。
この相違の根底にあるものは何か、考えるに、
これは、一つの見方ではあるが、日本人には仏教の教えが影響しているのか、輪廻・転生(transmigration of the soul; the (never-ending) cycle of reincarnation; metempsychosis)という思想がなんとなく日本人の心の奥底にあるような気がする。
だから、どんな動物の命にも軽重はないという思いが形成される。
他方、キリスト教世界で育った人たちは、牛、羊、などは神によって「食べてよいもの」と教えられる。神の教えてあるからそれは絶対的なものである。それに疑問を持つものは、神に疑問を持つのと同じで、恐れ多いことである。(豚はどうなんじゃ、ということにはなるが)。日本人が、「じゃ、牛や豚を殺すのはどうなんだ」と問題提起しても、彼は、「ん、それがどうした。神が食料として認めたものに何の問題もない」で、彼らにとってはそのことは議論の対象にはなりえない。
だから、ここで、日本人の多くが、鯨と牛の命を差別するのはアンフェア(unfair)だと主張しても、彼らには、そういう議論には入れない。彼らにとって、神から認められたものは議論の対象になりえないからだ。
もう一つの相違は、言葉の世界にある。
日本語では、牛肉であり、豚肉であり、羊肉(またはマトン)であって、肉にはもとの動物の名前と不可分の関係になっている。
(これは、もともと狩猟民族ではなかったことに由来するかもしれないが)
英語世界では、それぞれの肉は、beefであり、porkであり、muttonであって、もとの動物の名前、cow, pig/hog, sheepとは別の言葉が使われる。ここでも、牛(cow), 豚(pig/hog), 羊(sheep)の肉は、これらの動物とは言葉の上では独立した存在になっている。
勿論、これはそれぞれの言葉の由来の別(古代英語とラテン)から説明されているけれども、結果として、それらの肉は、言葉の上で元の動物との連想を断ち切られて、単なる「人間が食べるための肉」であるという思考の形成を促す。
こう見てくると、両者の間には深い溝があって、到底その溝は埋まりそうにない。
日本が南氷洋捕鯨を継続するかどうかの判断は、結局のところ、経済合理性から日本人の多数としてどう判断するかにかかってくるのではないか。現在は、国の補助を得て行っているのであるから、国としていつまでその補助を続けていけるか・・、続けるのが有意義なのかということだろう。
かと言って、南氷洋捕鯨の規模を拡大するのは調査捕鯨という性格からいって問題が大きい。
沿岸、近海捕鯨だけに絞れば、本質的な反対論は消えないにしても、反対論者は今よりは相当減少する。
ただ、沿岸、近海の鯨は水銀濃度が高いということも言われている(所詮、毎日食べるものではないけれども)。
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