Re: クジラは魚を連れてくるエビス様
投稿者: r13812 投稿日時: 2008/04/11 23:45 投稿番号: [20333 / 63339]
北海道沿岸では江戸時代、鯨はニシンを連れてきてくれるありがたい
「神」としてあがめ、漁の対象とせず、浜に打ち上げられた鯨(寄り
鯨)のみを食料とした。明治以降、本州から鯨を追ってきた漁師と、鯨
をあがめる地元のニシン漁師との衝突があったことは、当時の新聞に記
録されている。
http://jyoho.hokkaido-np.co.jp/fmail/backnumber/show2.php3?y=2003&c=setana&f=20030509
「三陸沿岸では日常的に鯨肉を食べる習慣はなく、
江戸時代の三陸の漁民は鯨をエビスと呼んでとても
大事にし、信仰していた」と話した。(1)鯨が現
れると岸にイワシの大群が来て豊漁となった(2)
鯨の近くでカツオの一本釣りをした(3)鯨が岸に
打ち上げられた場合のみ、浜で平等に分けて貴重な
食糧とした−の三点を証拠として挙げた。
漁民と鯨の関係が崩れたのは、幕末にアメリカの
捕鯨船が日本沿岸でたくさんの鯨を捕獲したことや、
近代捕鯨が国内で普及したことにあると指摘。こうし
た過渡期の事件を示す資料として、三陸の漁民が紀
州の鯨漁師の漁差し止めを求めた訴状、青森の漁民
による捕鯨会社焼き打ち事件の記録などを紹介した。
http://www.sanriku-kahoku.com/news/2005_09/k/050909k-kujira.html
鯨騒動 漁業補償に不満募りほう起
http://www.daily-tohoku.co.jp/niida/niida1b2.htm
2001/01/19
一九一一(明治四十四)年十月三十一日、湊館鼻、いわゆる日和山の頂上(今の館鼻公園)に、湊と白銀を中心とした浜通りの漁民たちが集まり、激論を交わしていた。周辺にただならぬ気配が漂う。
議題は鯨である。半年前、鮫で東洋捕鯨会社が解体作業を始めたが、九月末までの漁期を守らず、一カ月を過ぎてもまだ操業を続けていた。海は血で真っ赤に染まり、そのせいか今年のイワシ漁はさっぱりだ。
漁業補償は鮫の組合ばかりに支払われ、湊や白銀には返事がない。もともと、漁民は会社の誘致そのものに反対だった。鯨は「えびす様」であり、古来、信仰の対象なのだ。不満は頂点に達していた。
翌十一月一日払暁(ふつぎょう)。半鐘が乱打された。合図だ。村中の人々が外に飛び出し、鮫を目指す。えんぶり太鼓でふれ歩く者もいた。「みんなカダレッ(加われ)」。
ハマが揺れた。ほう起した漁民は五百人とも千人ともいわれる。日露戦争で知られる赤ゲット(毛布)姿がいた。白装束もあった。文字通り決死の討ち入りであり、一揆(いっき)そのものだった。
一団は捕鯨会社を破壊し尽くし、経営者の長谷川藤次郎宅のほか、神田重雄宅、石田家などにも押し寄せた。会社側や警官隊との抗争は激しく、死者二人、重傷者五人、軽傷者二十人に上った。世に言う鯨会社焼き討ち事件である。
八戸市の郷土史研究家、中里進さんは「背景に、当時の奥南派と政友会という政治的対立の構図が垣間見える」と指摘する。
「古代からの鯨とのかかわり、漁民の聖地館鼻、百姓一揆にも使われたえんぶり、そして政治情勢。当時の八戸の社会状況がすべて凝縮された、空前絶後の大事件だった」
事件後、周辺では「クジラ」が禁句になったという。政治的には、これを機にいわゆる浜通り派と呼ばれる勢力が生まれ、八戸の近代化のターニングポイントになった。
あれから九十年。館鼻公園から望む八戸港の風景は大きく変わり、事件を直接知る人もほとんどいない。しかし、八戸を揺るがした漁民のエネルギーは、世紀を超えて伝えられていくことは間違いない。
(吉田晃記者)
「神」としてあがめ、漁の対象とせず、浜に打ち上げられた鯨(寄り
鯨)のみを食料とした。明治以降、本州から鯨を追ってきた漁師と、鯨
をあがめる地元のニシン漁師との衝突があったことは、当時の新聞に記
録されている。
http://jyoho.hokkaido-np.co.jp/fmail/backnumber/show2.php3?y=2003&c=setana&f=20030509
「三陸沿岸では日常的に鯨肉を食べる習慣はなく、
江戸時代の三陸の漁民は鯨をエビスと呼んでとても
大事にし、信仰していた」と話した。(1)鯨が現
れると岸にイワシの大群が来て豊漁となった(2)
鯨の近くでカツオの一本釣りをした(3)鯨が岸に
打ち上げられた場合のみ、浜で平等に分けて貴重な
食糧とした−の三点を証拠として挙げた。
漁民と鯨の関係が崩れたのは、幕末にアメリカの
捕鯨船が日本沿岸でたくさんの鯨を捕獲したことや、
近代捕鯨が国内で普及したことにあると指摘。こうし
た過渡期の事件を示す資料として、三陸の漁民が紀
州の鯨漁師の漁差し止めを求めた訴状、青森の漁民
による捕鯨会社焼き打ち事件の記録などを紹介した。
http://www.sanriku-kahoku.com/news/2005_09/k/050909k-kujira.html
鯨騒動 漁業補償に不満募りほう起
http://www.daily-tohoku.co.jp/niida/niida1b2.htm
2001/01/19
一九一一(明治四十四)年十月三十一日、湊館鼻、いわゆる日和山の頂上(今の館鼻公園)に、湊と白銀を中心とした浜通りの漁民たちが集まり、激論を交わしていた。周辺にただならぬ気配が漂う。
議題は鯨である。半年前、鮫で東洋捕鯨会社が解体作業を始めたが、九月末までの漁期を守らず、一カ月を過ぎてもまだ操業を続けていた。海は血で真っ赤に染まり、そのせいか今年のイワシ漁はさっぱりだ。
漁業補償は鮫の組合ばかりに支払われ、湊や白銀には返事がない。もともと、漁民は会社の誘致そのものに反対だった。鯨は「えびす様」であり、古来、信仰の対象なのだ。不満は頂点に達していた。
翌十一月一日払暁(ふつぎょう)。半鐘が乱打された。合図だ。村中の人々が外に飛び出し、鮫を目指す。えんぶり太鼓でふれ歩く者もいた。「みんなカダレッ(加われ)」。
ハマが揺れた。ほう起した漁民は五百人とも千人ともいわれる。日露戦争で知られる赤ゲット(毛布)姿がいた。白装束もあった。文字通り決死の討ち入りであり、一揆(いっき)そのものだった。
一団は捕鯨会社を破壊し尽くし、経営者の長谷川藤次郎宅のほか、神田重雄宅、石田家などにも押し寄せた。会社側や警官隊との抗争は激しく、死者二人、重傷者五人、軽傷者二十人に上った。世に言う鯨会社焼き討ち事件である。
八戸市の郷土史研究家、中里進さんは「背景に、当時の奥南派と政友会という政治的対立の構図が垣間見える」と指摘する。
「古代からの鯨とのかかわり、漁民の聖地館鼻、百姓一揆にも使われたえんぶり、そして政治情勢。当時の八戸の社会状況がすべて凝縮された、空前絶後の大事件だった」
事件後、周辺では「クジラ」が禁句になったという。政治的には、これを機にいわゆる浜通り派と呼ばれる勢力が生まれ、八戸の近代化のターニングポイントになった。
あれから九十年。館鼻公園から望む八戸港の風景は大きく変わり、事件を直接知る人もほとんどいない。しかし、八戸を揺るがした漁民のエネルギーは、世紀を超えて伝えられていくことは間違いない。
(吉田晃記者)
これは メッセージ 20330 (r13812 さん)への返信です.
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