サブラ・シャティーラ虐殺事件
投稿者: syoumenkyousi 投稿日時: 2006/07/20 20:18 投稿番号: [94108 / 118550]
▼広河隆一『パレスチナ』岩波新書より―─。
● 約束の国の真実5
http://www.geocities.co.jp/Technopolis-Mars/5614/is5.html
3000人以上が殺されたといわれているが、正確な数字はわからない。シャティーラ・キャンプの入口の共同墓地だけで、300体が埋められた。キャンプの中からイスラエル兵の名札が発見されたが、軍当局はこの兵士の喚問を禁止した。そして西独の『シュピーゲル』誌のインタビュー(83年2月14日)で、虐殺に加わった右派民兵は、イスラエル兵が何人か、彼の小隊に参加していた、と述べたのである。
▼サブラ・シャティーラでの
虐殺に対する
アリエル・シャロンの関係責任
http://smile.poosan.net/mangamegamondo/annex/sharon/index.html
● A. 虐殺事件の概要 http://smile.poosan.net/mangamegamondo/annex/sharon/index.html
・・・
歴史家とジャーナリストの多くは、おそらく9月12日にビクファヤ(Bikfaya)において、アリエル・シャロン氏とバシール・ジェマイエル氏の間でなんらかの「会合」がもたれ、「レバノン勢力」がパレスチナの難民キャンプを「一掃する」ことを承認する協定が結ばれたであろうことを認めている。西ベイルートにファランジスト(キリスト教マロン派民兵)を送る意向は、1982年7月9日にシャロン氏によってすでに発表されており、ビクファヤ会議において作戦の交渉がされたことは彼の伝記からも確認できる。
1982年9月22日のクネセット(イスラエル議会)でのアリエル・シャロン氏の宣言によると、ベイルートの難民キャンプへのファランジスト侵攻は、1982年9月15日水曜日15時30分に決定された。またシャロン将軍によれば、イスラエルの司令官は次の通り指示を受けている。
「難民のキャンプへのツァハル(イスラエル国軍)の侵入は禁止される」
「キャンプの『掃射』はファランジスト民兵かレバノン軍によって遂行されること」
・・・
その時点で、ドロリ将軍はアリエル・シャロン氏に電話をかけ「友人はキャンプに侵攻しています。我々は彼らの侵入を調整しました」と報告している。シャロン氏は「おめでとう! 我々の友人の作戦には満足している」答えた。
それから40時間、「包囲・封鎖」されたキャンプ内では、民兵軍が、おびただしい数の、それもほとんどは子どもや女性、高齢者である非武装住民を強姦し、殺害し、そして暴行を加えて続けた。組織的一斉検挙の一貫あるいは付随したものであり、またイスラエル軍の支持あるいは支援された民兵軍の行為は、多大なる消失をもたらす。
1982年9月18日土曜日の朝まで、キャンプで何が行われ、虐殺行為を犯している民兵軍のリーダーが誰か完全に把握し、いつでも接触できる状態にありながらイスラエル軍が介入することはなかった。そのかわりに彼らは、夜中、照明弾を打ち上げてキャンプを照らし出し、ヘリコプターと迫撃砲で一般市民がキャンプから脱出するのを防いだ。
犠牲者の試算は、700名(イスラエルの公式試算)から3,500名(イスラエル人ジャーナリストAmnon Kapeliouk氏の試算)まで幅がある。家族によってベイルートの墓地に、または赤十字(ICRC)によって公共墓地に埋葬された人々に加えて、多数の死体が民兵軍によってブルドーザーで整地された建物跡に埋められた。そういった死者の数はおよそ1,000人にのぼるとみられており、正確な数値はこれまでまったく把握されていない。また、ことに9月17日と18日、行先が不明のトラックで生きたまま運び去られた何百もの人々も、決して戻ることはなかった。
虐殺の犠牲者そして生存者は、レバノンであっても、イスラエルや他の地であっても、いかなる司法通達であっても受け取ったことがない。400,000人の人々が通りを埋めた抗議行動のあとの1982年9月、イスラエル議会(クネセット)は調査委員会の議長としてイツァーク・カーン氏を指名した。委員会の命令は限定され(それは政治的な側面だけで法的拘束力をもたなかった) 、また犠牲者の声も要求もまったく欠けてはいたものの、調査委員会は国防大臣個人に虐殺の責任があったことを結論づけた。
・・・
▼ホベイカはレバノンでの虐殺の「新たな証拠」を握っていた
――ベルギー上院議員、語る
http://smile.poosan.net/mangamegamondo/annex/hobeika.html
● 約束の国の真実5
http://www.geocities.co.jp/Technopolis-Mars/5614/is5.html
3000人以上が殺されたといわれているが、正確な数字はわからない。シャティーラ・キャンプの入口の共同墓地だけで、300体が埋められた。キャンプの中からイスラエル兵の名札が発見されたが、軍当局はこの兵士の喚問を禁止した。そして西独の『シュピーゲル』誌のインタビュー(83年2月14日)で、虐殺に加わった右派民兵は、イスラエル兵が何人か、彼の小隊に参加していた、と述べたのである。
▼サブラ・シャティーラでの
虐殺に対する
アリエル・シャロンの関係責任
http://smile.poosan.net/mangamegamondo/annex/sharon/index.html
● A. 虐殺事件の概要 http://smile.poosan.net/mangamegamondo/annex/sharon/index.html
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歴史家とジャーナリストの多くは、おそらく9月12日にビクファヤ(Bikfaya)において、アリエル・シャロン氏とバシール・ジェマイエル氏の間でなんらかの「会合」がもたれ、「レバノン勢力」がパレスチナの難民キャンプを「一掃する」ことを承認する協定が結ばれたであろうことを認めている。西ベイルートにファランジスト(キリスト教マロン派民兵)を送る意向は、1982年7月9日にシャロン氏によってすでに発表されており、ビクファヤ会議において作戦の交渉がされたことは彼の伝記からも確認できる。
1982年9月22日のクネセット(イスラエル議会)でのアリエル・シャロン氏の宣言によると、ベイルートの難民キャンプへのファランジスト侵攻は、1982年9月15日水曜日15時30分に決定された。またシャロン将軍によれば、イスラエルの司令官は次の通り指示を受けている。
「難民のキャンプへのツァハル(イスラエル国軍)の侵入は禁止される」
「キャンプの『掃射』はファランジスト民兵かレバノン軍によって遂行されること」
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その時点で、ドロリ将軍はアリエル・シャロン氏に電話をかけ「友人はキャンプに侵攻しています。我々は彼らの侵入を調整しました」と報告している。シャロン氏は「おめでとう! 我々の友人の作戦には満足している」答えた。
それから40時間、「包囲・封鎖」されたキャンプ内では、民兵軍が、おびただしい数の、それもほとんどは子どもや女性、高齢者である非武装住民を強姦し、殺害し、そして暴行を加えて続けた。組織的一斉検挙の一貫あるいは付随したものであり、またイスラエル軍の支持あるいは支援された民兵軍の行為は、多大なる消失をもたらす。
1982年9月18日土曜日の朝まで、キャンプで何が行われ、虐殺行為を犯している民兵軍のリーダーが誰か完全に把握し、いつでも接触できる状態にありながらイスラエル軍が介入することはなかった。そのかわりに彼らは、夜中、照明弾を打ち上げてキャンプを照らし出し、ヘリコプターと迫撃砲で一般市民がキャンプから脱出するのを防いだ。
犠牲者の試算は、700名(イスラエルの公式試算)から3,500名(イスラエル人ジャーナリストAmnon Kapeliouk氏の試算)まで幅がある。家族によってベイルートの墓地に、または赤十字(ICRC)によって公共墓地に埋葬された人々に加えて、多数の死体が民兵軍によってブルドーザーで整地された建物跡に埋められた。そういった死者の数はおよそ1,000人にのぼるとみられており、正確な数値はこれまでまったく把握されていない。また、ことに9月17日と18日、行先が不明のトラックで生きたまま運び去られた何百もの人々も、決して戻ることはなかった。
虐殺の犠牲者そして生存者は、レバノンであっても、イスラエルや他の地であっても、いかなる司法通達であっても受け取ったことがない。400,000人の人々が通りを埋めた抗議行動のあとの1982年9月、イスラエル議会(クネセット)は調査委員会の議長としてイツァーク・カーン氏を指名した。委員会の命令は限定され(それは政治的な側面だけで法的拘束力をもたなかった) 、また犠牲者の声も要求もまったく欠けてはいたものの、調査委員会は国防大臣個人に虐殺の責任があったことを結論づけた。
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▼ホベイカはレバノンでの虐殺の「新たな証拠」を握っていた
――ベルギー上院議員、語る
http://smile.poosan.net/mangamegamondo/annex/hobeika.html
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