ど、ドラちゃん (爆) それで②
投稿者: inuwokuuna_bakatyon 投稿日時: 2005/08/01 23:34 投稿番号: [76327 / 118550]
「日韓2000年の真実」
名越二荒之助
平成9年
国際企画
昭和12年7月7日の盧溝橋事件に端を発した支那事変において日本軍が中国軍を打ち破り、連戦連勝するようになると、朝鮮民衆の対日感情はにわかに好転し始めたのです。2000年前の漢時代から朝鮮を圧迫・支配してきた中国の軍隊をいとも簡単に打ち破る日本軍の強さに朝鮮人は驚き、そしてその驚きが尊敬に、尊敬は熱烈な愛国心(日本への協力)へと変わっていったのです。
目に見える劇的な変化は、出征軍人の歓送迎でした。支那事変勃発後、7月12日から多くの兵士が入営出征を見たのですが、北支に出動する日本軍の部隊が続々と朝鮮半島を縦断して北上するに及び、見ず知らずの人々も町内、村内または一地方挙げて駅まで出てきて、これを送迎するようになったのです。誰誘うとはなしに、駅という駅は国旗の波と万歳の声で溢れるようになりました。もともと個人的には親切な人々が多い朝鮮民族ですから、駅での心のこもった湯茶接待、慰問品の受け渡しばかりでなく、出征兵士との間に涙と笑いの交歓が続きました。とくに京城駅(現ソウル駅)には、昭和12年9月中だけでも実に43万余人、1日平均1万4300人余りが詰めかけ、日本の兵士たちをいたく感激させたといいます。
朝鮮教科団体連合会編『支那事変に現れたる朝鮮同胞の赤誠』(昭和12年10月発行)というパンフレットには、そうした朝鮮人の愛国ぶりが他にも具体的に紹介されています。例えば、日本軍人の無事を祈る千人針が流行していることや、朝鮮神宮への参拝者が急増し、9月3日には同神宮でキリスト教徒の尹致昊を代表とする朝鮮の各界代表百数十名が発起人となって『国威宣揚武運長久祈願祭』が挙行されたことや、血書を書いての従軍志願者が何百という数にのぼり、中にはその希望が達せられないので自殺した青年まで現れて総督府を困惑させていること等々、大変な熱気なのです。興味深いことは、朝鮮の民衆ばかりでなく、それまで日本に対して冷ややかであった朝鮮の民族主義者や民族団体までが、手のひらを返したように積極的に愛国運動をはじめたことへの日本側の戸惑いが、そのパンフレットの端々ににじみでていることです。
日本政府が昭和13年(1938)4月、陸軍特別志願兵制を設置するや、それまで独立運動を指導してきた崔麟らは、『これによって半島の民衆も全的に日本国民になるのだから、一層覚悟を新たにしなければならない』と声明を発表し、かつて大正8年(1919)には2・8独立宣言を執筆した朝鮮を代表する大作家・李光洙が歌謡『志願兵壮行歌』を作詞するなど、3・1運動の指導者や民族文学の第一人者たちが率先して戦争への協力を呼びかけたのです。これに応えて、朝鮮人青年は続々と志願しました。年を追うごとに応募者が増え、昭和16年に至っては実に45倍の志願者が押し寄せたのです。その倍率に驚かされます。朝鮮は伝統ある儒教国家であり、応募するには父母、親族の許しが必要でした。青年の一時の血気だけでは志願するのは困難なお国柄です。この驚くべき倍率の影には、圧倒的な朝鮮人の支持があったと見なければならないと思います。
それにしてもなぜ、これほどの朝鮮人青年たちは日本軍に志願したのでしょうか。米英のアジア侵略を阻止し東洋平和を確立するという日本の国家目標の実現が、朝鮮の将来と同一線上にあることを朝鮮民衆が理解するようになっていたこともあると思います。また、支那事変以来、日本の陸軍士官学校を卒業した朝鮮人士官の活躍ぶりが報道され、青年たちの心を強く揺さぶっていたことが大きかったようです。また、現実的な動機もありました。志願兵に出て戻ってくれば、自動的に巡査や面事務所(村役場)の役人になれたのです。そうすれば、家族の暮らしも良くなります。当時の日本青年の多くがそうであったように、朝鮮の青年たちの多くも貧困のため進学を諦めざるを得ませんでした。そんな朝鮮の青年にとって、志願兵は自分の将来を切り開く一つの道でもあったのです。
昭和12年7月7日の盧溝橋事件に端を発した支那事変において日本軍が中国軍を打ち破り、連戦連勝するようになると、朝鮮民衆の対日感情はにわかに好転し始めたのです。2000年前の漢時代から朝鮮を圧迫・支配してきた中国の軍隊をいとも簡単に打ち破る日本軍の強さに朝鮮人は驚き、そしてその驚きが尊敬に、尊敬は熱烈な愛国心(日本への協力)へと変わっていったのです。
目に見える劇的な変化は、出征軍人の歓送迎でした。支那事変勃発後、7月12日から多くの兵士が入営出征を見たのですが、北支に出動する日本軍の部隊が続々と朝鮮半島を縦断して北上するに及び、見ず知らずの人々も町内、村内または一地方挙げて駅まで出てきて、これを送迎するようになったのです。誰誘うとはなしに、駅という駅は国旗の波と万歳の声で溢れるようになりました。もともと個人的には親切な人々が多い朝鮮民族ですから、駅での心のこもった湯茶接待、慰問品の受け渡しばかりでなく、出征兵士との間に涙と笑いの交歓が続きました。とくに京城駅(現ソウル駅)には、昭和12年9月中だけでも実に43万余人、1日平均1万4300人余りが詰めかけ、日本の兵士たちをいたく感激させたといいます。
朝鮮教科団体連合会編『支那事変に現れたる朝鮮同胞の赤誠』(昭和12年10月発行)というパンフレットには、そうした朝鮮人の愛国ぶりが他にも具体的に紹介されています。例えば、日本軍人の無事を祈る千人針が流行していることや、朝鮮神宮への参拝者が急増し、9月3日には同神宮でキリスト教徒の尹致昊を代表とする朝鮮の各界代表百数十名が発起人となって『国威宣揚武運長久祈願祭』が挙行されたことや、血書を書いての従軍志願者が何百という数にのぼり、中にはその希望が達せられないので自殺した青年まで現れて総督府を困惑させていること等々、大変な熱気なのです。興味深いことは、朝鮮の民衆ばかりでなく、それまで日本に対して冷ややかであった朝鮮の民族主義者や民族団体までが、手のひらを返したように積極的に愛国運動をはじめたことへの日本側の戸惑いが、そのパンフレットの端々ににじみでていることです。
日本政府が昭和13年(1938)4月、陸軍特別志願兵制を設置するや、それまで独立運動を指導してきた崔麟らは、『これによって半島の民衆も全的に日本国民になるのだから、一層覚悟を新たにしなければならない』と声明を発表し、かつて大正8年(1919)には2・8独立宣言を執筆した朝鮮を代表する大作家・李光洙が歌謡『志願兵壮行歌』を作詞するなど、3・1運動の指導者や民族文学の第一人者たちが率先して戦争への協力を呼びかけたのです。これに応えて、朝鮮人青年は続々と志願しました。年を追うごとに応募者が増え、昭和16年に至っては実に45倍の志願者が押し寄せたのです。その倍率に驚かされます。朝鮮は伝統ある儒教国家であり、応募するには父母、親族の許しが必要でした。青年の一時の血気だけでは志願するのは困難なお国柄です。この驚くべき倍率の影には、圧倒的な朝鮮人の支持があったと見なければならないと思います。
それにしてもなぜ、これほどの朝鮮人青年たちは日本軍に志願したのでしょうか。米英のアジア侵略を阻止し東洋平和を確立するという日本の国家目標の実現が、朝鮮の将来と同一線上にあることを朝鮮民衆が理解するようになっていたこともあると思います。また、支那事変以来、日本の陸軍士官学校を卒業した朝鮮人士官の活躍ぶりが報道され、青年たちの心を強く揺さぶっていたことが大きかったようです。また、現実的な動機もありました。志願兵に出て戻ってくれば、自動的に巡査や面事務所(村役場)の役人になれたのです。そうすれば、家族の暮らしも良くなります。当時の日本青年の多くがそうであったように、朝鮮の青年たちの多くも貧困のため進学を諦めざるを得ませんでした。そんな朝鮮の青年にとって、志願兵は自分の将来を切り開く一つの道でもあったのです。
これは メッセージ 76326 (inuwokuuna_bakatyon さん)への返信です.
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