残念ながら絶対的な正義も
投稿者: assaraamaaleicomnjp 投稿日時: 2005/07/21 21:08 投稿番号: [75671 / 118550]
普遍の正義もないのだ。
>では絶対の正義は誰が決めるのか?
どうして決める必要が生じるのだ?
むしろ絶対の正義などを持ち出すことによって、それに反するという意味での相対的な「悪」を決めつけて(作り出して)人を裁く行為こそが「悪」だとされていることは、これはキリスト教徒の常識ではないか?
つまりさかのぼって旧約を共有するユダヤ教徒の常識でもあるはずだ。
なんか青臭すぎて、読んでいるほうが恥ずかしい。
「人を裁いてはなりません」と言う言葉は、確かキリスト教の言葉だと思ってちょっと調べてみると、以下のようなサイトが見つかった。
案山子さん心して(素直に原点にさかのぼって)読んでみれば?
*******************
http://www.ahorie.com/sermon2004/040919.html
人を裁くな
マタイ福音書 7:1〜6
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今日は「人を裁くな」です。なぜ人を裁いてはいけないのでしょうか。悪いことだから? 考えてみてください。
「なぜ自分の目にある丸太に気づかないのか」(3節)。
おが屑と丸太の対比は誇張的な表現です。現実には他者の欠点は目につき、自分の欠点には気づかないものです。姦淫したダビデを家臣のナタンがいさめる物語がそのことを典型的に示しています(サムエル記下12:1〜14)。イエス様は言うのです「気づけ!欠点のない人間、問題行動のない人間はいない。自分のことを棚に上げるな」と。
「自分の目から丸太を取り除け」(5節)。
もし私たちが、我々が自分の欠点、問題行動に気づくなら、何が起きるでしょうか。人間の行動には色々事情があることがわかります。それが「はっきり見えるようになる」(5節)です。その結果、相手の欠点や、その行動を見て、他者を裁くことはしなくなります。「彼がそうするには事情がある。それは何だろうか」と相手を思いやる気持ちが生まれます。
「あなたの目からおが屑を取らせてください」(4節)。
相手を正そうとする行為は、注意しなければなりません。隠された事情を知らずして正そうとしても、うまくいかないでしょう。
イエス様はこの教えを弟子に向けて語りました。教会では人を裁くことがよく起こります。私たちは共に神の教えに従い教会の働きを担おうとします。そこでつい他者を裁くのです。なぜ人を裁いてはいけないのか。それは交わりを破壊するからです。互いに愛し合うべき信仰者の交わりを壊すからです。嫁と姑が互いに裁き合えば、家庭が破壊されます。裁きは共同体、人の交わりを破壊します。
私たちがキリストの教会を築こうとするなら、私たちが神の家族をつくろうとするなら、「裁くこと」は、克服すべき課題です。疎遠な関係の人が互いに裁くことはありません。裁きは近い関係の人の間で起きます。
教会で「裁き」をなくすために、互いの関係を薄めるのではなく、互いに受け入れ合うことが必要となります。
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>では絶対の正義は誰が決めるのか?
どうして決める必要が生じるのだ?
むしろ絶対の正義などを持ち出すことによって、それに反するという意味での相対的な「悪」を決めつけて(作り出して)人を裁く行為こそが「悪」だとされていることは、これはキリスト教徒の常識ではないか?
つまりさかのぼって旧約を共有するユダヤ教徒の常識でもあるはずだ。
なんか青臭すぎて、読んでいるほうが恥ずかしい。
「人を裁いてはなりません」と言う言葉は、確かキリスト教の言葉だと思ってちょっと調べてみると、以下のようなサイトが見つかった。
案山子さん心して(素直に原点にさかのぼって)読んでみれば?
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http://www.ahorie.com/sermon2004/040919.html
人を裁くな
マタイ福音書 7:1〜6
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今日は「人を裁くな」です。なぜ人を裁いてはいけないのでしょうか。悪いことだから? 考えてみてください。
「なぜ自分の目にある丸太に気づかないのか」(3節)。
おが屑と丸太の対比は誇張的な表現です。現実には他者の欠点は目につき、自分の欠点には気づかないものです。姦淫したダビデを家臣のナタンがいさめる物語がそのことを典型的に示しています(サムエル記下12:1〜14)。イエス様は言うのです「気づけ!欠点のない人間、問題行動のない人間はいない。自分のことを棚に上げるな」と。
「自分の目から丸太を取り除け」(5節)。
もし私たちが、我々が自分の欠点、問題行動に気づくなら、何が起きるでしょうか。人間の行動には色々事情があることがわかります。それが「はっきり見えるようになる」(5節)です。その結果、相手の欠点や、その行動を見て、他者を裁くことはしなくなります。「彼がそうするには事情がある。それは何だろうか」と相手を思いやる気持ちが生まれます。
「あなたの目からおが屑を取らせてください」(4節)。
相手を正そうとする行為は、注意しなければなりません。隠された事情を知らずして正そうとしても、うまくいかないでしょう。
イエス様はこの教えを弟子に向けて語りました。教会では人を裁くことがよく起こります。私たちは共に神の教えに従い教会の働きを担おうとします。そこでつい他者を裁くのです。なぜ人を裁いてはいけないのか。それは交わりを破壊するからです。互いに愛し合うべき信仰者の交わりを壊すからです。嫁と姑が互いに裁き合えば、家庭が破壊されます。裁きは共同体、人の交わりを破壊します。
私たちがキリストの教会を築こうとするなら、私たちが神の家族をつくろうとするなら、「裁くこと」は、克服すべき課題です。疎遠な関係の人が互いに裁くことはありません。裁きは近い関係の人の間で起きます。
教会で「裁き」をなくすために、互いの関係を薄めるのではなく、互いに受け入れ合うことが必要となります。
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これは メッセージ 75655 (oxnardnokakashi さん)への返信です.
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