昭和天皇独白録
投稿者: battamama 投稿日時: 2005/05/20 22:20 投稿番号: [71622 / 118550]
天皇責任論が俄に浮上しているが、当時統帥権をもち、参謀総長や軍令部総長からそのつど作戦計画、遂行のプロセスを知らされ追認していた天皇に罪がないわけはない。
しかし、そこには情状酌量の余地があるとも思えるのだ。
一つには、先日も述べたように、参謀総長や軍令部総長達が、必ずしも天皇に真実の報告をしていたとは限らない。
そして、もう一つは『昭和天皇独白録』の内容文だ。
以下、史実と交えてそれをご紹介します。
最終の外交打開案である「譲歩に譲歩を重ね、ついに譲歩に達した」という「甲案」と、それでもまとまらなかった時の為に、最低戦争だけは避けるための暫定案の「乙案」が作られていた。
しかし、アメリカは既に日本の外務省暗号を解読しており、いずれの案も既に掌握していた。
そして、素知らぬ顔で両案を拒否し、11月26日、「ハル・ノート」を日本に突きつけた。
ハル・ノートを手渡した翌日、ハル国務長官は、海軍長官と陸軍長官に「私の仕事は終わった。あとは君たちの仕事だ」と発言。事実上の宣戦布告だ。
アメリカ軍は11月27日、国民には極秘の内に戦争体制に入った。
12月1日、御前会議において、「日本は現下の危局を打開し、自存自衛を全うするために開戦やむなきに至った」という東条英機総理の言に異論を唱える者はなく、天皇も開戦の「聖断」を下すより他なかった。
以下、天皇独白録。
「実に石油の輸入禁止は日本を窮地に追い込んだものである。
かくなった以上は、万一の僥倖に期しても、勝った方が良いという考えが決定的になったのは自然の勢と云わねばならぬ。
もしあの時、私が主戦論を抑えたならば、陸海に多年錬磨の精鋭なる軍を持ちながら、ムザムザ米軍に屈すると云うので、国内の与論は必ず沸騰し、クーデターが起こったであろう。
実に難しいときであった。
その内にハルの所謂最後通牒が来たので、外交的にも最後の段階に至ったわけである。」
戦後、天皇がマッカーサーと会見したとき、天皇は「この戦争を防止したいと思った」と語った。
マッカーサーが、「なぜその希望を実行に移すことが出来なかったのか」と訊ねたら、
「私の国民は私が非常に好きである。私を好いてくれているからこそ、もし私が戦争に反対したり、平和の努力をやったりしたならば、国民は私を精神病院か、何かに入れて、戦争が終わるまで、そこに押し込めておいたに違いない。
また、国民が私を愛していなかったならば、彼らは簡単に私の首をちょん切ったでしょう。」
この発言から伺えるのは、自らが開戦を望んでいた大本営側が、国民が戦争を強く望んでいると天皇に告げ、欺いた可能性がある。(大本営は、国民にも情報操作を行っていた)
開戦時と、終戦時の「聖断」の相違を天皇自ら分析。
「開戦の際、東条内閣の決定を私が裁可したのは、立憲政治下に於る立憲君主としてやむを得ぬ事である。
もし己が好む所は裁可し、好まざる所は裁可しないとすれば、之は専制君主と何ら異なる所はない。
終戦の際は、然しながら、之とは事情を異にし、廟議がまとまらず、鈴木総理は議論分裂のまま、その裁断を私に求めたのである。
そこで私は、国家、民族の為に、私が是なりと信ずる所に依りて、事を裁いたのである。
私がもし開戦の決定に対して「ベトー」したとしよう。国内は必ず大内乱となり、私の信頼する周囲の者は殺され、私の命も保証できない。それは良いとしても、結局凶暴な戦争が展開され、今次の戦争に数倍する悲惨事が行われ、果ては終戦も出来兼ねる始末となり、日本は亡びることになったであろうと思う」(veto=君主が大権により拒否すること)
と、語っている。
天皇の葛藤の様が伺える内容だが、しかしその判断と予測には疑問が残る。あまりにも悲観的であり、命乞いの為の言い訳にもに思えなくもない。
あるいは、天皇にこのように思わせるべく、参謀総長や軍令部総長等が天皇に情報操作を謀ったのか。
しかし、これが天皇の本意だったとすれば、確かに天皇は日本と、その国民を愛していたのであろう。
今となっては、いずれであっても詮無きことだが。
しかし、そこには情状酌量の余地があるとも思えるのだ。
一つには、先日も述べたように、参謀総長や軍令部総長達が、必ずしも天皇に真実の報告をしていたとは限らない。
そして、もう一つは『昭和天皇独白録』の内容文だ。
以下、史実と交えてそれをご紹介します。
最終の外交打開案である「譲歩に譲歩を重ね、ついに譲歩に達した」という「甲案」と、それでもまとまらなかった時の為に、最低戦争だけは避けるための暫定案の「乙案」が作られていた。
しかし、アメリカは既に日本の外務省暗号を解読しており、いずれの案も既に掌握していた。
そして、素知らぬ顔で両案を拒否し、11月26日、「ハル・ノート」を日本に突きつけた。
ハル・ノートを手渡した翌日、ハル国務長官は、海軍長官と陸軍長官に「私の仕事は終わった。あとは君たちの仕事だ」と発言。事実上の宣戦布告だ。
アメリカ軍は11月27日、国民には極秘の内に戦争体制に入った。
12月1日、御前会議において、「日本は現下の危局を打開し、自存自衛を全うするために開戦やむなきに至った」という東条英機総理の言に異論を唱える者はなく、天皇も開戦の「聖断」を下すより他なかった。
以下、天皇独白録。
「実に石油の輸入禁止は日本を窮地に追い込んだものである。
かくなった以上は、万一の僥倖に期しても、勝った方が良いという考えが決定的になったのは自然の勢と云わねばならぬ。
もしあの時、私が主戦論を抑えたならば、陸海に多年錬磨の精鋭なる軍を持ちながら、ムザムザ米軍に屈すると云うので、国内の与論は必ず沸騰し、クーデターが起こったであろう。
実に難しいときであった。
その内にハルの所謂最後通牒が来たので、外交的にも最後の段階に至ったわけである。」
戦後、天皇がマッカーサーと会見したとき、天皇は「この戦争を防止したいと思った」と語った。
マッカーサーが、「なぜその希望を実行に移すことが出来なかったのか」と訊ねたら、
「私の国民は私が非常に好きである。私を好いてくれているからこそ、もし私が戦争に反対したり、平和の努力をやったりしたならば、国民は私を精神病院か、何かに入れて、戦争が終わるまで、そこに押し込めておいたに違いない。
また、国民が私を愛していなかったならば、彼らは簡単に私の首をちょん切ったでしょう。」
この発言から伺えるのは、自らが開戦を望んでいた大本営側が、国民が戦争を強く望んでいると天皇に告げ、欺いた可能性がある。(大本営は、国民にも情報操作を行っていた)
開戦時と、終戦時の「聖断」の相違を天皇自ら分析。
「開戦の際、東条内閣の決定を私が裁可したのは、立憲政治下に於る立憲君主としてやむを得ぬ事である。
もし己が好む所は裁可し、好まざる所は裁可しないとすれば、之は専制君主と何ら異なる所はない。
終戦の際は、然しながら、之とは事情を異にし、廟議がまとまらず、鈴木総理は議論分裂のまま、その裁断を私に求めたのである。
そこで私は、国家、民族の為に、私が是なりと信ずる所に依りて、事を裁いたのである。
私がもし開戦の決定に対して「ベトー」したとしよう。国内は必ず大内乱となり、私の信頼する周囲の者は殺され、私の命も保証できない。それは良いとしても、結局凶暴な戦争が展開され、今次の戦争に数倍する悲惨事が行われ、果ては終戦も出来兼ねる始末となり、日本は亡びることになったであろうと思う」(veto=君主が大権により拒否すること)
と、語っている。
天皇の葛藤の様が伺える内容だが、しかしその判断と予測には疑問が残る。あまりにも悲観的であり、命乞いの為の言い訳にもに思えなくもない。
あるいは、天皇にこのように思わせるべく、参謀総長や軍令部総長等が天皇に情報操作を謀ったのか。
しかし、これが天皇の本意だったとすれば、確かに天皇は日本と、その国民を愛していたのであろう。
今となっては、いずれであっても詮無きことだが。
これは メッセージ 1 (topics_editor さん)への返信です.
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