「闘牛士作戦」顛末(含・創作)
投稿者: bonno_216 投稿日時: 2005/05/18 17:11 投稿番号: [71401 / 118550]
「マタドール作戦」の顛末を、集められる限りの資料をもとに、私の推測も交えてまとめてみました。
「マタドール作戦」と名付けられた軍事行動は、5月8日〜15日の8日間とされていますが、実際にアンバル州全域の緊張が高まったのは今年2月中旬からです。州都ラマディでは2月の始めに全警察官が辞任し、市は抵抗勢力の支配下となりました。そのためアンバル州最大の米軍基地アイン・アサド(ヒート市)が「陸の孤島」化し、連日、抵抗勢力の攻撃を受けるようになったのです。そのうえ、基地への補給路にあたる東のラマディと西のカイムが抵抗勢力の手に落ちたことによって、アサド基地は縮小を余儀なくされ、2月16日には総兵力の40%以上を撤退させています。
「このままでは、アイン・アサド基地が陥落する」との危機感を抱いた占領軍当局は、基地の東西補給路を確保するため、ラマディとカイムの制圧を目的とした軍事作戦を開始しました。これが4月11〜18日の「カイム電撃作戦」です。(攻撃の動機は私の推測です)
空挺部隊の決死的パラシュート降下が効を奏し、カイム市中心部は一時的に海兵隊が制圧しましたが、市街戦で徐々に劣勢に追い込まれ、5月初めには市内を撤退。そこで、今度は陸・海軍の援軍と装備の補給を得て、再度、制圧作戦を実行しました。これが、後に「マタドール作戦」といわれる攻撃だったわけです。ちなみに、ハート・セキュリティ社の齋藤氏が護衛を指揮していたコンボイは、この作戦のためにバグダッドもしくはバスラからアサド基地に装備や兵員を搬送していたものであろうと思われます。
人口わずか5万の小さな都市=カイムさえ陥落させれば補給路が確保され、ラマディ侵攻も楽になる…そうして5月8日(7日説もある)、海兵隊と陸・海軍の合同展開部隊1000名以上、戦闘ヘリのコブラ、FA18ホーネット、レーザー誘導弾、クラスター爆弾、数百台の戦闘車両という、標的の規模から見れば十分すぎるほどの装備を以て「マタドール作戦」は開始されました。
しかし、攻撃部隊はカイムの東の入り口にあたるウバイディとカラビラで、ゲリラ側の猛反撃に遭遇し、進撃を阻まれました。攻撃隊は8日と9日の二日間で、ゲリラ戦士70名以上を殺害しましたが、米軍の装備も大損害を受け(戦死は14名と発表された)、カイム突入は一旦延期を余儀なくされたのです。
続く二日間、米軍はカイム市を空爆で破壊し、突入部隊が四方から侵入を試みました。市周辺部で多くの激戦が繰り広げられ、海兵隊司令官の一人が戦死しました。ゲリラ側は市内の展開部隊とハディッサからの援軍で米軍の突入部隊を挟み撃ちにし、かろうじて侵入を食い止めましたが、この空爆と戦闘によりカイム市民150名以上が死亡したとされています。
その後も米軍は包囲と爆撃を継続しましたが、10日にはアンバル州知事がゲリラに拘束され、11日にはアイン・アサド基地が大規模な攻撃を受け、前線の部隊との通信が遮断されるに及んで、攻撃隊はアサド基地への退却を準備しだしました。作戦名が初めてメディアに発表されたのもこの時です。「ザルカウィ容疑者の捕捉と、抵抗勢力の拠点潰しを目的にカイムを攻撃し、一定の戦果を得られたので撤退する」…というシナリオが作られたのも、おそらくこの時だったのでしょう。
13日以降は大規模な戦闘がなく、赤新月社の人道救援隊がカイム市内に入ったり、CNNが市内の米軍支配地域を撮影したりと、比較的平穏な時間が過ぎた後、15日になって「マタドール作戦成功裏に終了」という発表がなされました。同時にレジスタンス総司令部は「第二クラン戦争(マタドール作戦にレジスタンス側が命名した作戦名)における勝利宣言」を出しています。
「マタドール作戦」と名付けられた軍事行動は、5月8日〜15日の8日間とされていますが、実際にアンバル州全域の緊張が高まったのは今年2月中旬からです。州都ラマディでは2月の始めに全警察官が辞任し、市は抵抗勢力の支配下となりました。そのためアンバル州最大の米軍基地アイン・アサド(ヒート市)が「陸の孤島」化し、連日、抵抗勢力の攻撃を受けるようになったのです。そのうえ、基地への補給路にあたる東のラマディと西のカイムが抵抗勢力の手に落ちたことによって、アサド基地は縮小を余儀なくされ、2月16日には総兵力の40%以上を撤退させています。
「このままでは、アイン・アサド基地が陥落する」との危機感を抱いた占領軍当局は、基地の東西補給路を確保するため、ラマディとカイムの制圧を目的とした軍事作戦を開始しました。これが4月11〜18日の「カイム電撃作戦」です。(攻撃の動機は私の推測です)
空挺部隊の決死的パラシュート降下が効を奏し、カイム市中心部は一時的に海兵隊が制圧しましたが、市街戦で徐々に劣勢に追い込まれ、5月初めには市内を撤退。そこで、今度は陸・海軍の援軍と装備の補給を得て、再度、制圧作戦を実行しました。これが、後に「マタドール作戦」といわれる攻撃だったわけです。ちなみに、ハート・セキュリティ社の齋藤氏が護衛を指揮していたコンボイは、この作戦のためにバグダッドもしくはバスラからアサド基地に装備や兵員を搬送していたものであろうと思われます。
人口わずか5万の小さな都市=カイムさえ陥落させれば補給路が確保され、ラマディ侵攻も楽になる…そうして5月8日(7日説もある)、海兵隊と陸・海軍の合同展開部隊1000名以上、戦闘ヘリのコブラ、FA18ホーネット、レーザー誘導弾、クラスター爆弾、数百台の戦闘車両という、標的の規模から見れば十分すぎるほどの装備を以て「マタドール作戦」は開始されました。
しかし、攻撃部隊はカイムの東の入り口にあたるウバイディとカラビラで、ゲリラ側の猛反撃に遭遇し、進撃を阻まれました。攻撃隊は8日と9日の二日間で、ゲリラ戦士70名以上を殺害しましたが、米軍の装備も大損害を受け(戦死は14名と発表された)、カイム突入は一旦延期を余儀なくされたのです。
続く二日間、米軍はカイム市を空爆で破壊し、突入部隊が四方から侵入を試みました。市周辺部で多くの激戦が繰り広げられ、海兵隊司令官の一人が戦死しました。ゲリラ側は市内の展開部隊とハディッサからの援軍で米軍の突入部隊を挟み撃ちにし、かろうじて侵入を食い止めましたが、この空爆と戦闘によりカイム市民150名以上が死亡したとされています。
その後も米軍は包囲と爆撃を継続しましたが、10日にはアンバル州知事がゲリラに拘束され、11日にはアイン・アサド基地が大規模な攻撃を受け、前線の部隊との通信が遮断されるに及んで、攻撃隊はアサド基地への退却を準備しだしました。作戦名が初めてメディアに発表されたのもこの時です。「ザルカウィ容疑者の捕捉と、抵抗勢力の拠点潰しを目的にカイムを攻撃し、一定の戦果を得られたので撤退する」…というシナリオが作られたのも、おそらくこの時だったのでしょう。
13日以降は大規模な戦闘がなく、赤新月社の人道救援隊がカイム市内に入ったり、CNNが市内の米軍支配地域を撮影したりと、比較的平穏な時間が過ぎた後、15日になって「マタドール作戦成功裏に終了」という発表がなされました。同時にレジスタンス総司令部は「第二クラン戦争(マタドール作戦にレジスタンス側が命名した作戦名)における勝利宣言」を出しています。
これは メッセージ 1 (topics_editor さん)への返信です.
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