特攻隊・バターン死の行進
投稿者: dorawasabi5001 投稿日時: 2005/04/29 22:54 投稿番号: [69732 / 118550]
★特攻隊・・無策の作戦
・・・
続く沖縄戦では初期段階で総兵力18万2000人強の連合軍に対し、約9万6400人強の日本軍が対峙。
4月に「全軍特攻」の名の下、大規模な特攻作戦「菊水作戦」を展開した。海軍は続々と神風特攻隊を編成、陸軍も振武隊や赤心隊を編成投入した。
熟練の戦闘機乗りが消え、未熟者が多くなるにつれ、戦果は著しく減少していったが、
【特攻は「作戦」としての意味あいよりも、それにともなう「特攻死」そのものが、自己目的と化さざるを得なかった。】
【特攻隊員は本人の自由意思に基づいて編成されることが原則とされていたが、実際には指名されたものがほとんどだった。】
意思確認の場では、自らの腕(飛行技術)の如何にかかわらぬたった一度きりの攻撃=死の作戦に対し反感を持っていた熟練者でも、
【拒否できない雰囲気に置かれていたという。】
けれども、いったん命令が下された隊員よりも、下した指揮官のほうが異常な精神状態にあり、エンジン不良で作戦上継続不能となり帰還した兵に対して
「臆病者」「卑怯者」と呼ぶもの、特攻機を援護し、作戦遂行を確認する直援機にすら特攻を要求するものなどがいた。
沖縄失陥後、日本の航空戦力はもはや底をついたも同然であったが、特攻は断続的に続けられ、
【終戦までに特攻で戦死した隊員総数は海軍2506人、陸軍1404人に達したとされる。】
・・
http://www.mainichi.co.jp/life/family/syuppan/chronicle/1937_45_7.html
★バターン死の行進
東京裁判の証人台に立った生存者の証言によると、
【行進中、日本軍による水・食糧、あるいは薬の支給はほとんどなく、】
彼らが得た食糧はフィリピン人が彼らに投げ与えてくれたものか、畑から勝手に取ったサトウキビなどで、
水は道路の両側の溝や井戸から取ったものであり、そのような水を飲んだ者は赤痢にかかるのが普通であったという。
しかも列を離れ井戸や畑に行った捕虜や、食糧をくれたフィリピン人の中には日本兵によって殺される者もいたと回想している。
「私たちは、その行進の全期間にわたり、殴打せられ、あるいは銃剣で刺され、あるいは靴の底に金属の付いている靴によつて蹴られ」たと、
日本兵による虐待が頻繁に行われていたことが証言された。
列から遅れたり横に出たりした者は、直ちに銃剣によって殴られ、あるいは刺され、それはたとえ赤痢によって非常に弱り、
列から後ろに取り残された兵でも同様で、その結果死亡したこと、ときには理由なくその列から引っ張り出されて殴打され、射殺される者がいたこと、
また道路の傍らにはそのまま遺棄された死体が転がっていて、
「その中には女の人もいたが、妊娠している者もいた」ことなどが述べられた。
行進が終わってからも、彼らはオードンネル収容所でさらに虐遇を受け続けたという。
東京裁判に先立ち行われた、マニラ軍事法廷での戦争犯罪裁判の「起訴事実」によると、この行進中、
米人1200人およびフィリピン人1万6000人の捕虜が、死亡または行方不明となったとしており、
フィリピン攻略作戦を担当した第14軍司令官・本間雅晴中将は、
バターン他フィリピン各地で、日本軍将兵に残虐行為および重大犯罪を犯すことを許し、指揮官としての義務を怠ったという理由で、1946年4月3日銃殺刑に処せられた。
http://www.mainichi.co.jp/life/family/syuppan/chronicle/1937_45_4.html
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続く沖縄戦では初期段階で総兵力18万2000人強の連合軍に対し、約9万6400人強の日本軍が対峙。
4月に「全軍特攻」の名の下、大規模な特攻作戦「菊水作戦」を展開した。海軍は続々と神風特攻隊を編成、陸軍も振武隊や赤心隊を編成投入した。
熟練の戦闘機乗りが消え、未熟者が多くなるにつれ、戦果は著しく減少していったが、
【特攻は「作戦」としての意味あいよりも、それにともなう「特攻死」そのものが、自己目的と化さざるを得なかった。】
【特攻隊員は本人の自由意思に基づいて編成されることが原則とされていたが、実際には指名されたものがほとんどだった。】
意思確認の場では、自らの腕(飛行技術)の如何にかかわらぬたった一度きりの攻撃=死の作戦に対し反感を持っていた熟練者でも、
【拒否できない雰囲気に置かれていたという。】
けれども、いったん命令が下された隊員よりも、下した指揮官のほうが異常な精神状態にあり、エンジン不良で作戦上継続不能となり帰還した兵に対して
「臆病者」「卑怯者」と呼ぶもの、特攻機を援護し、作戦遂行を確認する直援機にすら特攻を要求するものなどがいた。
沖縄失陥後、日本の航空戦力はもはや底をついたも同然であったが、特攻は断続的に続けられ、
【終戦までに特攻で戦死した隊員総数は海軍2506人、陸軍1404人に達したとされる。】
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http://www.mainichi.co.jp/life/family/syuppan/chronicle/1937_45_7.html
★バターン死の行進
東京裁判の証人台に立った生存者の証言によると、
【行進中、日本軍による水・食糧、あるいは薬の支給はほとんどなく、】
彼らが得た食糧はフィリピン人が彼らに投げ与えてくれたものか、畑から勝手に取ったサトウキビなどで、
水は道路の両側の溝や井戸から取ったものであり、そのような水を飲んだ者は赤痢にかかるのが普通であったという。
しかも列を離れ井戸や畑に行った捕虜や、食糧をくれたフィリピン人の中には日本兵によって殺される者もいたと回想している。
「私たちは、その行進の全期間にわたり、殴打せられ、あるいは銃剣で刺され、あるいは靴の底に金属の付いている靴によつて蹴られ」たと、
日本兵による虐待が頻繁に行われていたことが証言された。
列から遅れたり横に出たりした者は、直ちに銃剣によって殴られ、あるいは刺され、それはたとえ赤痢によって非常に弱り、
列から後ろに取り残された兵でも同様で、その結果死亡したこと、ときには理由なくその列から引っ張り出されて殴打され、射殺される者がいたこと、
また道路の傍らにはそのまま遺棄された死体が転がっていて、
「その中には女の人もいたが、妊娠している者もいた」ことなどが述べられた。
行進が終わってからも、彼らはオードンネル収容所でさらに虐遇を受け続けたという。
東京裁判に先立ち行われた、マニラ軍事法廷での戦争犯罪裁判の「起訴事実」によると、この行進中、
米人1200人およびフィリピン人1万6000人の捕虜が、死亡または行方不明となったとしており、
フィリピン攻略作戦を担当した第14軍司令官・本間雅晴中将は、
バターン他フィリピン各地で、日本軍将兵に残虐行為および重大犯罪を犯すことを許し、指揮官としての義務を怠ったという理由で、1946年4月3日銃殺刑に処せられた。
http://www.mainichi.co.jp/life/family/syuppan/chronicle/1937_45_4.html
これは メッセージ 1 (topics_editor さん)への返信です.
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