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投稿者: so_what108 投稿日時: 2005/02/13 17:05 投稿番号: [64614 / 118550]
>慰安婦問題に疑問を持つ者がおかしい。』
あいも変わらない根拠の無い反論!
あなたも忘れっぽい人だね、というか人の話ちゃんと聞いてるのかな。
(従軍慰安婦問題)にもいろんなアプローチがあるっていったじゃん。
(従軍慰安婦問題)をいつまでも(ウヨサヨ)のレベルでしか捉えることしかできないなんて頭固すぎ、というか・・・・古いよ。
もう一回貼り付けます
http://blog.tatsuru.com/archives/000194.php
第一は、政治のレベルの問題である。
この問題は日韓の歴史に刺さった「棘」のような高度に政治的な問題であり、その処理を誤ると今後の日韓関係に取り返しのつかない禍根を残すことになる。
だから、国益を考慮するならば、望ましい政治的決着は、日韓両国政府と両国国民がこの事件を奇貨として友好と信頼を深めることができるようなかたちのものでなければならない。
この国益レベルでの判断は、「結果として」外交関係が良好なものに転じるならば、極端な話、どんな解決策でもよい。
かりに従軍慰安婦問題についての歴史的事実の解明が完了していなくても、従軍慰安婦の中に個人的に「それでは納得がゆかない」という人がいても、両国民のマジョリティに「これで日韓関係は好転する」という見通しを保証するような決着案がみつかれば、それを選ぶに逡巡する必要はないということである。
第二は歴史学のレベルの問題である(今日の論点はこのレベルに限定されていた)。
それは公文書もオーラルヒストリーも含めて入手しうるかぎりの史料を網羅し、それに精密な史料批判を加え、「何が起きたのか」を可能な限り客観的に再構成する作業である。
この作業には政治的な「予断」が入り込んではならない。
「こんな史料を公開すると、日本の国益を損なうかもしれない」とか「こんな事実を発表すると、被害者の傷に塩をすりこむようなことになりかねない」とかいう主観的な斟酌を加えることは許されない。
第三は「トラウマ」のレベルの問題である。
真に外傷的な経験について、人間はそれを正確に記憶したり、証言したりすることができない。
「外傷」とはフロイトが定義するとおり、「私の正史に登録することのできぬ経験、私の言語をもっては語り得ぬできごと」である。むしろ、その経験に直面することを回避し、それを名づけることばを遠ざけることによって「私」の人格が構築されたような種類の体験である。
原理的にこの経験についての回想に「歴史的史料」としての客観性や一貫性や資料的裏づけを求めることは不可能である。
外傷的経験についての証言は繰り返すたびに矛盾し、一貫性を失う。むしろ、その事実こそが、その証言が外傷にかかわっていることの徴候ともいえるのである。
従軍慰安婦の被害者たちはその外傷的な原経験により、戦後その経験を秘匿せざるを得なかったことにより、さらにそれをカムアウトすることこそ「政治的に正しい」選択であるとするイデオロギー的圧力により、二重三重の抑圧を受けている。そのような心理的負荷の下で語り出される外傷的経験に文書史料に準じるような中立性や透明性を求めることはできない。
むしろ、フロイトやラカンが教えるとおり、それで外傷的経験が緩解するならば、「偽りの記憶」を物語ることさえ許されるべきなのである。
ごらんの通り、少なくとも三つのレベルで、私たちはそのつど違う判断基準で史料に対してふるまい方を変えなければならない
バウネットジャパンは第三の視点から取り組んでいるんじゃないかと思うのだが。これは私の憶測ではあるが、あなたの疑惑も憶測でしかないってこと。
あいも変わらない根拠の無い反論!
あなたも忘れっぽい人だね、というか人の話ちゃんと聞いてるのかな。
(従軍慰安婦問題)にもいろんなアプローチがあるっていったじゃん。
(従軍慰安婦問題)をいつまでも(ウヨサヨ)のレベルでしか捉えることしかできないなんて頭固すぎ、というか・・・・古いよ。
もう一回貼り付けます
http://blog.tatsuru.com/archives/000194.php
第一は、政治のレベルの問題である。
この問題は日韓の歴史に刺さった「棘」のような高度に政治的な問題であり、その処理を誤ると今後の日韓関係に取り返しのつかない禍根を残すことになる。
だから、国益を考慮するならば、望ましい政治的決着は、日韓両国政府と両国国民がこの事件を奇貨として友好と信頼を深めることができるようなかたちのものでなければならない。
この国益レベルでの判断は、「結果として」外交関係が良好なものに転じるならば、極端な話、どんな解決策でもよい。
かりに従軍慰安婦問題についての歴史的事実の解明が完了していなくても、従軍慰安婦の中に個人的に「それでは納得がゆかない」という人がいても、両国民のマジョリティに「これで日韓関係は好転する」という見通しを保証するような決着案がみつかれば、それを選ぶに逡巡する必要はないということである。
第二は歴史学のレベルの問題である(今日の論点はこのレベルに限定されていた)。
それは公文書もオーラルヒストリーも含めて入手しうるかぎりの史料を網羅し、それに精密な史料批判を加え、「何が起きたのか」を可能な限り客観的に再構成する作業である。
この作業には政治的な「予断」が入り込んではならない。
「こんな史料を公開すると、日本の国益を損なうかもしれない」とか「こんな事実を発表すると、被害者の傷に塩をすりこむようなことになりかねない」とかいう主観的な斟酌を加えることは許されない。
第三は「トラウマ」のレベルの問題である。
真に外傷的な経験について、人間はそれを正確に記憶したり、証言したりすることができない。
「外傷」とはフロイトが定義するとおり、「私の正史に登録することのできぬ経験、私の言語をもっては語り得ぬできごと」である。むしろ、その経験に直面することを回避し、それを名づけることばを遠ざけることによって「私」の人格が構築されたような種類の体験である。
原理的にこの経験についての回想に「歴史的史料」としての客観性や一貫性や資料的裏づけを求めることは不可能である。
外傷的経験についての証言は繰り返すたびに矛盾し、一貫性を失う。むしろ、その事実こそが、その証言が外傷にかかわっていることの徴候ともいえるのである。
従軍慰安婦の被害者たちはその外傷的な原経験により、戦後その経験を秘匿せざるを得なかったことにより、さらにそれをカムアウトすることこそ「政治的に正しい」選択であるとするイデオロギー的圧力により、二重三重の抑圧を受けている。そのような心理的負荷の下で語り出される外傷的経験に文書史料に準じるような中立性や透明性を求めることはできない。
むしろ、フロイトやラカンが教えるとおり、それで外傷的経験が緩解するならば、「偽りの記憶」を物語ることさえ許されるべきなのである。
ごらんの通り、少なくとも三つのレベルで、私たちはそのつど違う判断基準で史料に対してふるまい方を変えなければならない
バウネットジャパンは第三の視点から取り組んでいるんじゃないかと思うのだが。これは私の憶測ではあるが、あなたの疑惑も憶測でしかないってこと。
これは メッセージ 64609 (lighter101rethgil さん)への返信です.
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