アイデンティティ欲
投稿者: welcome2thecivilization 投稿日時: 2004/12/26 00:22 投稿番号: [60476 / 118550]
>しばらく留守にするとすごい投稿量ですね、このトピ。
ここにきて、掲示板みたいな場所は、夜とかしか参加できない立場だと昼間から打てる人とのギャップが埋めきれないなぁ、と思いますね。レスを見つけるだけで精一杯ですもの。精神力とか持たない、っていうか。私もそろそろ投稿の潮時かな、とか思います。
さて、メインの話ですが、
もちろんソシュール以降の認識論でいう知覚の対象としての「他者」ではありません(当然ですが)。
私はこのアメリカ白人うんぬんの説を、だいぶ以前に読んだエマニュエル・トッドの本(『新・ヨーロッパ大全』だったとおもいますが、トッドであることは間違いありません)で知りました。ホッブスにしても近代の特に進化論以降の社会学にしても、一致しているのは「世界はほっとけば戦争になる」を前提として理論を展開しているとおもえることです。極言すれば「どうしたら戦争を“比較的”回避できるか」が社会学のテーマであると言っても過言ではないのかも知れませんね。
その本も哲学書ではありませんから、「他者」の定義が書いてあったわけではないのですが、翻訳を読んだ限り日本語の利点(=欠点)である文字通りの意味──つまり他種の人間という意味──と受け取っていいと私は感じました。
「他者」と「敵」を単独で語った場合は、それぞれ別の概念なのでしょう。
「黒人・先住民がいたから白人が平等になった」の例えで言えば、別に「他者」=敵でなくても、排除の対象であれば成立しますよね。
でも、民衆の「他者」を排除する意識を中心的に支えているのが、迷信であったりプロパガンダであったりすることを考えると、排除の対象が国外など「自分たちの外側」の存在になった場合、はっきりと「敵」との違いを明確に区別することは難しそうですね。
つまり 他者 ⊇ 敵 ということじゃないでしょうか。
そう考えると、「他者」との間に国境があるかないかはあまり関係なくて、
>>私たちの選択肢は、実は非常に限られていて、
A.敵がいるけれども、身内は平和(?)な世の中
B.敵はいないけれども、隣人にすら怯える世の中
の二つしかないのかも知れません。
も正確には、私は敵じゃなくて「他者」と書くべきだったようです。
A.は、
so_what108さんの書かれた「反日教育の中国」もそうですし、日本の士農工商時代の農民が、穢多の存在のお陰で、一揆の抑制に繋がって結果200年以上も幕藩体制が続いたという例もこれに含まれるでしょう。(最初のアメリカ白人の例もこっち)。
B.は
EUで言えば、統合後になって却ってネオナチなどの極右主義が台頭した事実であるとか、
ユーゴとかコーカサスが、連邦という枠組みが解体した途端に民族意識が高まったって紛争が起こったことなどが、良い(?)例となるのではないでしょうか。
この有様を見る限り、「他者」が敵とまでは言えなくても、ある程度は明確に排除の対象でなければ、「他者」との境界線が曖昧で同胞意識が機能しない(これを「アイデンティティ欲」と名付けましょうか?)のかも知れませんね。
そう考えていくと、so_what108さんの疑問、
>:他者の存在は(敵)にしかならないのだろうか?
は、「他者」を明確にしながらも、敵にならない程度にしっかりと制御(←ムズカしそうだなオイ)していくという方法が、賢いやりかたと言えるのでしょうか。
ここにきて、掲示板みたいな場所は、夜とかしか参加できない立場だと昼間から打てる人とのギャップが埋めきれないなぁ、と思いますね。レスを見つけるだけで精一杯ですもの。精神力とか持たない、っていうか。私もそろそろ投稿の潮時かな、とか思います。
さて、メインの話ですが、
もちろんソシュール以降の認識論でいう知覚の対象としての「他者」ではありません(当然ですが)。
私はこのアメリカ白人うんぬんの説を、だいぶ以前に読んだエマニュエル・トッドの本(『新・ヨーロッパ大全』だったとおもいますが、トッドであることは間違いありません)で知りました。ホッブスにしても近代の特に進化論以降の社会学にしても、一致しているのは「世界はほっとけば戦争になる」を前提として理論を展開しているとおもえることです。極言すれば「どうしたら戦争を“比較的”回避できるか」が社会学のテーマであると言っても過言ではないのかも知れませんね。
その本も哲学書ではありませんから、「他者」の定義が書いてあったわけではないのですが、翻訳を読んだ限り日本語の利点(=欠点)である文字通りの意味──つまり他種の人間という意味──と受け取っていいと私は感じました。
「他者」と「敵」を単独で語った場合は、それぞれ別の概念なのでしょう。
「黒人・先住民がいたから白人が平等になった」の例えで言えば、別に「他者」=敵でなくても、排除の対象であれば成立しますよね。
でも、民衆の「他者」を排除する意識を中心的に支えているのが、迷信であったりプロパガンダであったりすることを考えると、排除の対象が国外など「自分たちの外側」の存在になった場合、はっきりと「敵」との違いを明確に区別することは難しそうですね。
つまり 他者 ⊇ 敵 ということじゃないでしょうか。
そう考えると、「他者」との間に国境があるかないかはあまり関係なくて、
>>私たちの選択肢は、実は非常に限られていて、
A.敵がいるけれども、身内は平和(?)な世の中
B.敵はいないけれども、隣人にすら怯える世の中
の二つしかないのかも知れません。
も正確には、私は敵じゃなくて「他者」と書くべきだったようです。
A.は、
so_what108さんの書かれた「反日教育の中国」もそうですし、日本の士農工商時代の農民が、穢多の存在のお陰で、一揆の抑制に繋がって結果200年以上も幕藩体制が続いたという例もこれに含まれるでしょう。(最初のアメリカ白人の例もこっち)。
B.は
EUで言えば、統合後になって却ってネオナチなどの極右主義が台頭した事実であるとか、
ユーゴとかコーカサスが、連邦という枠組みが解体した途端に民族意識が高まったって紛争が起こったことなどが、良い(?)例となるのではないでしょうか。
この有様を見る限り、「他者」が敵とまでは言えなくても、ある程度は明確に排除の対象でなければ、「他者」との境界線が曖昧で同胞意識が機能しない(これを「アイデンティティ欲」と名付けましょうか?)のかも知れませんね。
そう考えていくと、so_what108さんの疑問、
>:他者の存在は(敵)にしかならないのだろうか?
は、「他者」を明確にしながらも、敵にならない程度にしっかりと制御(←ムズカしそうだなオイ)していくという方法が、賢いやりかたと言えるのでしょうか。
これは メッセージ 60421 (so_what108 さん)への返信です.
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