悟り談義に花咲いて
投稿者: sunsaun1 投稿日時: 2004/07/24 21:17 投稿番号: [47446 / 118550]
戦争が人間にもたらす一つの福音があるとすれば、人間にこの世の矛盾と生きることの意味、そして死を問う意識活動を促進することかな。
今後もっと世界が混乱したならば、最終的に私達は『神とは何か』と問うようになるのかも。
結局『悟りの境地』なんてものは、語れるものではない。『不立文字』であり、禅でいうところの『非思量』なんだろうな。
その意識を体感するしかない。
悟りなんてものを小難しくし、ややこしいものにしてしまったのは、他ならぬ『生坊主』であり『行者』だと思うね。(脳天が詰まってんじゃん)
『法華経』の方便梵にある。『人は外に宝珠を求めて歩いたが、最初からその懐に宝珠を縫いつけてあるのに気が付いていない』これ法華経の文通りじゃないけどね。意味として理解してくれ。
同様に、メーテルリンクの童話の『青い鳥』。青い鳥を求めて外に出向いたけども、幸福の青い鳥はすぐ傍にいたって話。
森羅万象、日常のあらゆる出来事の中で、『今・ここ』という一瞬一瞬を『その意識』で意識活動するならば、そこに全て(=宇宙)がある。
禅ではそれを『随所に主とならば、立つところ皆真』という。
『一つの目明らかなれば・・・』というイエスキリストの言葉の、『一つの目』とは『第三の目』(ヨガでいうアジナチャクラで、眉間に位置する)のこと。
この第三の目が開かれるなら、直覚知が生まれ、日常のあらゆる何気ない現象からでも神(宇宙)の意志を体感し・知ることができる。
誰かさんが語っておられた以下のフレーズ。いい線いってんじゃない。
但し、『一つの目』が明らかならばという条件付きで。これなしでは、やはり日常の全ては、所詮過ぎゆくだけのただの日常に過ぎない。
『悟りなんか、家事をしながらでも、仕事をしながらでも、車に乗りながらでも、自分を見つめて、自分を生かしてもらってる誰かに感謝しりゃ、それが悟りを開いた状態になるわけよ』
これは メッセージ 1 (topics_editor さん)への返信です.
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