「殺せ」といえる感性
投稿者: grokworkdoll 投稿日時: 2004/06/20 14:44 投稿番号: [44324 / 118550]
すいませんもいっこだけ。
案山子はラディンをサダムを最近は笑ザルカーウィを「殺せ」「殺せなくて残念」などと平気で書くが、強烈な違和感を感じるのはおれだけか?
おれは誰であろうとどんな理由があろうと「殺せ」ということには、理屈を超えた禁忌、道徳的刷り込みがされてるんだ。戦争や死刑制度という現実を目の当たりにし、ある程度それを受け入れて日常のリアリティを形成しているおれでも、まさに「刷り込み」として、「殺せ」という言葉を吐くことは抵抗があるのだ。
幼少時、兄弟でふざけあってチャンバラかなんかをしてる時、「殺すぞ」と口にした瞬間、母親の平手打ちが飛んできた。そんな言葉を使っちゃダメだと。
大人になったら、日本の言霊思想などに感化され、ネガティブな表現を避けるようになった。「殺す」という言葉はその最たるものだ。
案山子の投稿を読んでいると、この禁忌感がないのか、と単純に不思議に思う。
それとも、崇高な理念のために、内的な禁忌を乗り越えて、痛みを感じながら「殺せ」といってるのだろうか?
どうもそうは思えない。
あまりにも無自覚に、夥しい数の「殺せ」が、軽薄にさらっと書かれるのだ。
なにかが麻痺している。その麻痺が、アメリカやブッシュ政権に対する理屈を超えたネガティブイメージを放出していることに気が付かないのか。
ついでにいえば、「殺せ」の裏には「正義」という概念がセットで張り付いているのだろう。案山子やテトの「正義」が」甘い麻薬だというおれの先の投稿の真意が理解いただけるだろうか。
それは今や、中毒症状、禁断症状の呈をさらしている。正義の枯渇に対し、フローリングの隙間に散った白い粉を掻き集めるように正義を掻き集め、やっとの思いで吸引する。つかのまの安堵のもと「殺せ」と呟く。そのつぶやきがさらなる「正義」を欲望する。
ディーラーは誰だ?
これは メッセージ 44320 (grokworkdoll さん)への返信です.
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