国家に対する自己犠牲の容認
投稿者: assaraamaaleicomnjp 投稿日時: 2004/05/30 12:52 投稿番号: [41595 / 118550]
>何十万という犠牲をださないように何百の犠牲に甘んじるという考え方が理解できない人間が多い。
効率を考えて行われなければ、「政治」が成立しないということは当然の話だ。
しかし、その効率化、合理化において、全体の中に埋もれて無視されたり、阻害されたりするものが、そうはされまいと、抵抗するということもまたそこに正当性が存在し、第三者によって支持されうる事例であるかぎりは、当然その主張は認められるべきことである。
ここに来ている一部にでも、そういう人間達が、国家を背負って、国家の立場から問題解決しようと考えているのならば、それはそれで、当然のことで、もし納得出来ないことがあるのならば、それとは敢然と戦う以外ない。
しかし、どう考えても、ここに来て、国家を擁護している奴等は、始めから国家を疑うことなく、庶民の一般的な見方を押さえつけ、国家に迎合することが自分の利益であるとでも考えているように、盲目的に国家と言う得体のしれないものの立場に立って擁護している様に見える。
この立場に立つものは、せっかく与えられている自らの権利を放棄し、国家に迎合するという意味で、娼婦的であり、「邪魔」である。
私達が異国の他人である人間の権利をここで主張するのと同じ意味で、娼婦的な偽善に充ち満ちている。
そしてそれは、将来(仮にではあるが可能性としては決して低い確率ではない)自分が阻害される立場になったときにおいて、効率良く消去・無視されようとしている現状になったときにさえも、国家主義的な立場を擁護するかぎり、国家のための完全なる自己犠牲をも容認するものでなければならないという自覚を持ったうえでの発言なのであろうか?
※国家権力は、今のままでも充分に強大であるのだから、国家に対する正当性などを擁護する必要はないのである。
私達一般民衆は、民主主義を掲げて支持している以上、もっと国家に対してわがままで良いはずだ!!
これは メッセージ 1 (topics_editor さん)への返信です.
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